半ば強引な勇気
高校3年の冬、
学生時代をチャランポランと生きた自分は
進路が当たり前に決まっていなかった。
勉強があまり好きではなかった私は大学という選択肢と道をすでに捨ててしまっていた。
飲食系で就職か専門学校かなぁとのんびり考える。
急いで決める気もあまりなく
ついに担任の先生から呼び出され、
就職先希望の提出期限が明日だと聞かされる。
その時期は毎日のように朝求人を紹介する時間があり、その日はそこで鉄板ステーキの寮がついた就職先が紹介された。
場所は地元からは遠く離れていた。
しかし切羽詰まりきっている当時の私は、ここにするかぁ、と信じられないくらい適当に決めた。
就職先を提出するために親からサインをもらうため提出する。母親はやりたい事はやれ精神なため、意外にもあっさりOKされた。
あとは父親。普段から私に怒ったことなどなく、常に優しいため、まぁ大丈夫だろうと思っていた。
しかし、帰ってきた返事は思っていたのとは全く違っていた。顔は今まで向けられたことのない呆れ顔混じりの怒った顔。
「こんなとこいってもせいぜい洗い物しかできんぞ」
「なぜ専門学校にしないのか」と
親と真面目な話をすることを避けていた私は、
提出日の朝、先延ばししていた時間と直面した。
なぜと聞かれても基本答えは出ない。
なんとなく。としか考えはなかった。
親に無駄にお金を払わせ適当に学校に行くよりは早く自立した方がいいと考えていたのだが、
そんな事その場で言えるはずもなく、先生にまた提出を先延ばししてもらった。
その後、地元の専門学校と書き換え再度親にサインを要求する。
今度は流石にいいだろうと自信を持って出したが、
「なんで地元なんだ」と
またあの時の同じ顔で、リプレイのようになぜ、をいただいた。
答えもリプレイ、なんとなく。だ。
頭にある事も、無駄なお金を〜と、同じ事を考えたが、また言えない。
そのやりとりを2.3回繰り返し、
仲良かった父親との溝はその度に深くなった。
何を考えているのか理解できない父親
自分は父親のことを思って近くにしようと、お金をなるべく使わせないように、と考えていたのにだんだん腹が立ってきた。
やっと父親にサインをもらうことができた時には、すでに回復できないような溝ができた。
地元から1番近いが、他県にある都会の専門学校に決まった。
親と喧嘩別れのようにすんなり離れ、1人で自分のことを誰も知らない学校に入学した。
入学してすぐにわかった。
人間関係が一から構築されることは勇気がいるが入ってみれば気持ちは楽で興味をそそるものだと。
あちらもこちらも不安の中、興味があるもの同士が惹かれ合い友人関係を構築していく。
大人になってわかる。あの選択は愛だ。
自分だけでは絶対に勇気が出なかった都会へ出るということ。18まで同じ場所で生きている人が急に都会に出るのには勇気がいる。それがなかった自分に却下という形で背中を押してくれた。しかしいきなり社会人になれるはずもないと、専門学校という選択肢を与えてくれた。あの時言われなければ今も地元、一人暮らしをする勇気もなく実家でのうのうと暮らしていたと思う。
専門学校では人生において大きな影響を与えてくれる友人とたくさん出会うことができた。地元の本当に小さな田舎町しか知らなかった自分が、世界の広さを知ることができた。そこからの進路も皆さまざまで、海外に行く人や同じ土地で頑張る仲間もいた。
本当に素晴らしい専門学校生活を送らせてもらった。
結構有名な専門学校であったため、就職も自分の怠惰以外の苦労はせずできた。
あの選択をしたから、あの選択をさせられたから。
今の自分がいる。
当時は親のレールに乗るなんて、と反発心だらけでこのままうまくいくとは微塵も思えなかったが、
5年経った今、あれが最前だったと思える。
まだ父親との間に用水路ほどの溝端は残っている。
しかし、親が死ぬまでには感謝の一つでも言えたらいいな、と思う。