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■【映画】エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス 意味を喪失した世界に残る確かなもの
おばかと哲学と家族愛がみごとに溶け合い、さらに想定の上をいくものを心に残してくれる傑作だ。
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■中国系の移民家族が経営する冴えないコインランドリー。店主のエヴリンは娘の問題や、ややこしい父親、優しいだけで頼りにならない夫、くせのある客たちの混乱のなかで納税の不備で税務署に呼び出され、精神的緊張はピークに。
夫と車椅子の父親を伴って税務署を訪れたエヴリンだったが、エレベーターの中で突如夫が別人格になって、お前が世界を救うのだ、と告げられる…
■ここからのカオスが素晴らしい。
人生にはいつでも選択があって、その選ばれなかった無限の選択肢が無限の平行世界を無限にこの世界の外側に存在させている。
エヴリンはカンフー映画スターであり、盲目の歌手であり、鉄板焼きのシェフであり、ピザの宣伝ボードを道端で掲げる大道芸師であり、ソーセージ指族である。
それぞれの人間がそれぞれにもっていた無限の選択肢の先にそれぞれのありえた自分がある。
■その自分をこの世界の自分に呼び込むスイッチが「おバカなことをすること」
最初はふーんというくらいなんだけど、繰り返し繰り返し畳みかけるようにエスカレートするおバカに、つい爆笑してしまう。
いちいち書くのもばかばかしいくらいなのだけれど、そのばかばかしさが日常のあたりまえをひっくり返す人生哲学的方法論として意味を持ちそうに思わせる高尚性とのギャップが、実によくできている。
■一方、あのときこうしていればどんな人生を歩んでどんな自分になっていたんだろう、というテーマはとても魅力的で、それだけで十分に一本の映画になりえる。
ところがこの映画はそこにとどまらない。
あらゆる可能性を同時に持つことは、結局人生の価値の、意味の崩壊を招くのではないか。
その象徴が、全部のせの黒いベーグル(全部の色の絵の具を混ぜると黒くなる、たぶんグーグルの暗喩)だ。
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■平行世界へのアクセスを可能にした世界で、あらゆる世界を同時に知覚し限界を超えた被験者はカオスの闇へと落ちる。
彼女はマルチバースへの脅威となるジョブ・トゥパキとなり、同時にエヴリンの娘ジョイにとりつき一体となる。
■ここから、母と娘の愛の物語というこの作品の本題へと大きく舵を切っていくのである。
生命が生まれなかった世界で、石として世界をながめるエヴリンとジョイの光景がとても効果的だ。
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■あらゆる可能性がこの世界の隣り合わせに無限に拡がっている。
若いときはその可能性に押しつぶされるように感じてしまう。
あらゆる可能性、価値観をベーグルにのせて無意味の虚無にとらわれてしまい、自分の価値すら感じられなくなってしまう。
■エブリンは娘をその闇から救うために、娘と同じ可能性の海に飛び込み虚無の闇の境界線上でカンフーのスキルを駆使しながら戦い続ける。
けれど、「戦うこと」=「相手の可能性を否定すること」に終わりはなく、幸せを生むことはない。
そのことをエヴリンに気づかせてくれるのが、あらゆる世界線で人生を味わい、同時に他者の人生へのやさしさを保ちつづける夫のウェイモンドの存在だ。
■いまそこにあるもの(All at Once)を楽しく面白く受入れる。めんどくさい洗濯物の袋に目玉をつけてかわいくしてしまう。くだらない、けれど強い生き方。
彼と駆け落ちをしなかった人生で出会うウェイモンドは、いまの生活に追われる人生では見ることのなかった彼の本質を浮き上がらせた。
そしてエヴリンは開眼する。
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■エヴリンのカンフーは、殺法から活法へ、相手が自分の可能性を「なりえなかったもの」と否定するものではなく、自分の中に埋め込まれているものとして受け入れる拳へと変容する。
彼女のカンフーは、「可能性」に気付かない、否定してしまう人々の心をつぎつぎに開放していく。
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■しかし娘ジョイが立っている場所はあまりに深い。
ジョイがひとりで行きたい、という先に奈落があるとわかっていても、それを尊重し見送る他に術はない。
自分とは違うひとりの人間として尊重するしかないのではないか。
■けれど、心の中でそれはだめだと、しっかり娘を抱きとめたいという衝動がエヴリンを突き動かす。
他者のあらゆる可能性を肯定し尊重することは、一見正しい。
けれど、そういうすべてを悟ったような一見寛容なあり方は、意味も価値も失った黒いベーグルの縁に立つものに救いを与えることはないのではないか。
だって、ここに「行ってはだめ!」と引き留める強い思いがあるのだから。
それが、愛だ。
■インターネットで瞬時にどこでもアクセス出来て、自分がなしえたかもしれない、なしえるかもしれないヒトがコトが、いやでも目の前にあふれてくる。
いちいちおバカなことをしなくても、僕らはいつでも自分を拡張できる。
しかし、ともするとインターネットやSNSが見せる可能性の海に溺れ、そのままに生きることが困難で、自分自身を見失ってしまいがちな時代である。
過剰な可能性を見つめ続ける先にあるのは意味の崩壊してしまった虚無の世界であり、僕らはその道程にある。
■そんな自己の解体が進む中で人を人として世界につなぎとめているのは、理屈ではない、身体の内側からあふれ出す「愛」という名の、僕らの中に埋め込まれたどうしようもなく相手と関わろうとする力である。
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この映画は、家族が愛を再発見、再構築する物語である。
とんでもなくおバカで、無限の風呂敷を広げて哲学の領域に踏み込み、それでいて最後には家族の愛に着地する。
観る前にはとてもじゃないけど想像できなかった感動が湧き上がってくるのが少し悔しい(うれしい)。
こういう裏切り的ご褒美がある映画って最高だよね!
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2022年 アメリカ映画
原題 Everything Everywhere All at Once
ダニエル・クワン、ダニエル・シャイナート監督・脚本
第95回アカデミー賞 作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞、助演女優賞、脚本賞、編集賞、計7部門受賞