ジョーカー フォリ•ア•ドゥ
本作は賛否両論だそうで、見に行く前から妙に緊張してしまった。
感想というのとは違うんだろうけど、最近ずっと話しているエンタメのリアリティという観点から震える程の衝動になった作品。
つまりはジョーカーは宇宙人でも超人でも無い不完全な人間だったんだ。
人間が罪を犯せば、ああなる。
当然こうなるんだよという場所から始まり、裁判という過程を取り判決へと向かっていく。
コミックであるバットマンから離れて映画としてのリアリティに立てば、前作を含めてとてもリアルな物語が展開していたと思う。
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ジョーカーならば脱獄し更なる狂気の大暴れをするはず!なんて、本作の主人公がアーサーである時点で無い気がする。
笑わせられないコメディアン。
笑うという事がどういう行為か分かってさえいないのだから、それは当然になる。
そんな自分が思い願う夢•渇望する幸せはリアリティの無い絵空事にしかならない。
だからこそ、その対比が徹底されたリアリティなんだと感じた。
言いたい事、言えない事。
抱えたまま心の扉を閉じているからこそ、夢見て憧れるたわいもない幸福。
それが誰にでも手に入れられそうであればあるほど、現実と妄想の境目は簡単に日常へ侵食してしまう。
そんな衝動の結果が大きなムーブメントを起こす。
それが何処か自分が世界に認められた様な捉え方にもなってしまう。
リアルだなあ。
弱い人間だからこその本作のジョーカーなんだろう。リーと最後に会った階段の空気感。
堪らなく現実だった。
現実でも妄想でも彼女は確かにそこに居た。
アーサーを望んでいたかもしれない男に導こうとしていた。
今作のハーレイクインは間違いなく運命の女だった。
悪魔の様に女神の様にアーサーを揺らしていた。
アーサーはジョーカーではない自分を認めて欲しかった。リーなら受け入れてくれると縋った。
それがいけない事にはならないだろう。
でも結末はあまりにもリアルだった。
ジョーカーではない自分たちも経験し涙した事がある恋愛の日常だった。
僕にはリーが実在したのかは、最後まではっきりと分からなかった。
ただ妄想はアーサーの痛みを和らげる術になっていた。それがリアルすぎるリアリティの中で自分を壊さない為の抵抗だと理解したから
「もうムリだ。」
ジョーカーは舞台を降りた気がする。
だから恋愛の日常を見られたのかもしれない。
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言葉にするなんてムリだ。
誰にでもあるパーツの集合体。
それでいて誰にでもある日常や経験が欠如した男。
アーサーが求めた自分を理解してくれる女性は、ジョーカーの起こしたムーブメントの先にいる、本当の小さな弱い自分にまで届いてくれる女性だった。
自分が認められたかもしれない錯覚から、現実の自分を見つけてくれる。
それが過酷さを増した刑務所の中にいるアーサーにとっての光だったのかもしれない。
長くウンザリと言われているミュージカルシーン、自分は全く嫌じゃなかった。
アーサーの心が踊り、ジョーカーからアーサーへと辿り着いていく心の中のステージ。
早い段階でリーはジョーカーを撃つ。
あれはアーサーの願いだったのかもしれないなあ。
ジョーカーのムーブメントの上辺だけに憧れちゃいけない。
その奥にある切なる願い。
手に入れてもいいじゃないかという欲望。
それでも得られない現実。
そんな時に手に入れてしまった具現としてのジョーカーも、アーサーの魂の中では境界線上のピエロだ。
本作がコミック作品から離れたリアリティのジョーカーだからこそ、ピエロである意味はより一層濃くなっているのだと思う。
ラスト、アーサーは自分の日常を受け入れられたのだろうか?
アーサーはアーサーに帰れていたならばと、切に願った。