時代考証にこだわらない理由
最近は自分の時代劇には「江戸ファンタジー」というタグを付けてます。
まあ好き勝手に古い時代で遊びたいと言えば、そこまでなんですがね💧
実際は時代考証面に関しては調べてはいるんです。
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自分はTV時代劇というものが嫌いでした。
そんな自分が惹きつけられたのが「南総里見八犬伝」でした。
その後アクションに憧れて真田広之さんの映画を借りまくって見ました。
真田広之さんの映画は無国籍物から忍者時代劇まで様々あり、そこから山田風太郎作品を読んだりしましたね。
ここら辺までは「見られる時代劇も少ないがあるな」という感じだったんです。
決定的だったのは再放送で見た「新必殺仕事人」
必殺シリーズを見た事は無かったんですが、人殺しの話なのは知っていました。
「何か泥々してそうだし怖いからヤダなあー!」と思って避けてたのもあります。
ホント、たまたま見ちゃったんですよね。
で、ハマりました(笑)
悪ふざけが過ぎていくシリーズなんですが、当時の自分には時代劇らしくない所で時代劇をやっているのが魅力的に見えたんです。
現代の事件や風俗を取り込んだお話のつくり方や、大人の特撮ヒーローみたいな雰囲気は、硬くてとっつきにくい時代劇のイメージを壊していました。
「あーこれは誰でも気軽に見られる時代劇だな。」
この時の思い出が今も強く残っています。
この感覚から「そういえば!」と思い巡ったのが「山田風太郎忍法帖」でした。
このシリーズめちゃくちゃなんですよね。
有り得ない忍術を理由も無く繰り出し、どちらかが簡単に死んでいくのです。
忍者だからって、どーやったらんな事が出来る様になるんすかねえー!?
自分は性格的にそう考えたもんです(笑)
必殺も三味線の糸って、あーやれば飛ぶんだあ!?
人ひとり吊り上げられんだ!?
どーやって修行したの!?
ここいら辺で娯楽ってのは四角紙面で考えても楽しくないのね!と気付いた訳です。
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僕の好きな時代劇小説なら、「◯◯町を南に抜けると◯◯寺に出る。そこから◯◯通りを東に進んだ場所が、◯◯である。」なんて書いてある訳なんです。
確かにリアリティがあり、雰囲気や場所を想像しやすいんだと思うんだけど、自分はこれが苦手です。
逆に想像に枷を嵌められる気がするんです。
人それぞれに思い浮かぶ風景は違うじゃありません?
映像として提供される画像は、ひとつの完成形としてあっていいんですが、、
個人的に細かい事より頭の中に浮かぶ画像を重要視する癖みたいなトコがありまして、、
あまり場所を特定され過ぎると、浮かんだ風景が辻褄の合わない時にプレッシャーを感じちゃうんですよね。あー何か間違って読んでんだろなあーって。
ね?北斗の拳が楽しめない人でしょ?(笑)
だから、あまり自分の書くもので細かい制約を持ち込まない様にしてるんですよ。
特に各話が細かく分かれた書き方をしてるので、途中から読む方もいる筈なんです。
その方が思い浮かべてくれた風景を否定したくないんですよね。
気になって前後を読んでみたら「全然違うやん!?」
とか「イメージ何か違ったから、もういいや!」みたいになってほしくないんです。
こんな感性は自分だけかもしれないんですけどね、、
自分はこう思って読めなくなった本、結構あるんですよね。
だから、、今は自由である事を優先しています。
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「まほろば流麗譚」の舞台も、ある程度は決めてあるんですが発表するつもりはありません。
漠然と「江戸の町」で良いと思っています。
読んだ方それぞれが「あーこれはあの辺なんだろーなぁー(ニヤり)」としてくれたら良いのです。
何てったって「江戸ファンタジー」なんですから。
マブ