僕の書く時代物の侍は大体弱い

これには自分の中に理由がある。
強く描かれている人物は今まではただ1人だけだった。

「沖田総司」

彼の物語を書くと約束した時に、また鮮明に分かった。
僕の書く沖田総司は目に見えない闇と戦う。
それが自分の中にある侍の本質に触れるから、物語はノワールに近づいていく。

それを避けていた。

「月に濡れる。」も綺麗事の物語では無かった。
キャラクターが呑気にする瞬間を用意出来たから少しそれから逃げられただけで、あれは追い詰められた苦しい人々の生きる足掻きの物語にすぎない。

そこに連なる沖田総司の物語が綺麗事な訳が無い。
これがあるから自分の中の強い侍というのは、ひどく悲しげに見えてしまう。
それに見合う人物でなければ強い侍とは扱いたくなかった。それが本音だった。

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現在展開中の物語では「柳生宗矩」と「松方澪」が強い侍として現れている。

「松方澪」は「月に濡れる。」本編でも綺麗事では無かったから、読者様にもご理解いただけるだろう。

では「柳生宗矩」は何故強い侍として登場しているのだろう。
それは彼のパーソナルがある人物にとてもよく似ているから。
言い換えるならば、彼が何故「松方澪」のパートナーになっているのかという話にもなる。

この時代の「柳生家」は綺麗事では無い。
家を取り戻し、かつての「柳生家」に戻る過程にいる。

でなければ「隠れ人」頭領なんぞはやりはしなかったろう。なりふり構っていられないのだ。
それだって綺麗事では無い筈だと思う。

そんな目的の為に強くなっていく男を、僕はひとり知っている。彼は主人公ではあったが侍ではなかった。

だから強かったとも言えるが、その強さの源は受け継がれた血でもある。

ここで言う事でもないんだけれど、「月に濡れる。」主人公•弥助には発表してないだけで実は苗字が設定されている。

彼の本名は「柳生弥助」である。

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現在3名登場している強い侍。
ここに後数名が加わっていく。

「まほろば始末譚」ではSF寄りのお話に近付いていくのだけれど、その分侍同士の対決場面も増えていく。地に足を踏ん張った侍が侍をやっていないと、全てが絵空事になってしまうから。

同じ様にその時代の日常に根差す「田原信幸」や「大沢美好」は弱い侍として書かれたままになる。
そこには覚悟と張り詰めた過酷さが足りないから。

誰もが強いヒーローになれる訳じゃあない。
戦うのも日常を逸脱した世界観に生きられるのも、選ばれた特殊な人だけでいい。

曖昧に憧れたり不意に巻き込まれていく暴力と生死の世界で、自分も主人公の様に上手くやれるなんて共感性はいらない。

それには、そうである理由がある。
時代物は侍が人を殺す立場だからこそ、弱くても成立するに過ぎない。
曲がりなりにも、あんな大きな刃物を振り回せるのが侍であり、その為の鍛錬が当たり前にあるから出来るに過ぎない。

だからなんだ。
そういう浪漫的な強さや争う話題は時代物だけに限定してきたのわ。
現代物という観点において「戦う」または「暴力」というものを避けてきたのわ。

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話しは少し脇道に逸れるかもしれない。
「ジョーカー」の侵食する虚構の作用。
その怖さが嫌だったんだ。

しかし映画である「ジョーカー」はその現実性において、作品の虚構を否定してみせた。

作中の現実では更なる蔓延の為の屈伸を意味する様にも見えるのだけれど、切り取られた人物の中の増殖を否定はして見せ切った。

これにはとても感動した。
あんな震える様な空気感の映像の中で、自分も生きているかもしれない現実を感じながら、妄想であるかもしれない作中の現実を体感出来たのは財産だと思う。

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最近は現代物においてのバイオレンスなんてものの、自分なりの整理が付いてきた。

それでも物語の舞台に上がる人物の条件は変えずに持っていたい。

アクションやバイオレンスなんて場に立つ人物。
そこで生き延びる人物。

それを誰もが出来る行為にしてはいけない。

それが時代物であっても、その線引きは必要だと思っている。

だから、僕の書く侍の大多数は弱い存在として、その時代の日常にいる一般の人物として弱くなっている。


マブ

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