流浪写真論
私がnoteで記事を載せる理由は2つある。1つ目は「自分の写真に対する考えをまとめたいから」である。写真を初めてはや5年目に突入したが、当初はあまり見えなかった写真に対して意見する自分が出てきた。これを是非とも文章で残しておきたいのである。『自己信頼』という本の中でお気に入りの一節がある。
ここで書いた考えが世間と違っている、あるいは自分の中で変わっていくことは私にとってはさほど問題ではない。とにかく表明していくことが大切である。せっかくなので写真そのものだけでなく、思想の部分を文章で残しておきたい。
2つ目は、「自分が写真論に強い興味を示しているから」である。写真家の数だけ写真論があるというのは、どこかで誰かが言っていたような気がする。つまり、写真論(ここでは写真に対する考え方とする)に正解はなく多様であると言える。私が一番初めに出会った写真論について書かれた本は『眼の狩人-戦後写真家たちが描いた軌跡-』(大竹昭子 著, 新潮社, 1994)である。この本は著者が複数の写真家をインタビューし、それぞれの写真家の写真に対する考え方などをまとめた本である。以前にも他の記事で引用させて頂いたが、実によく纏まっていてとても面白い。この本を読んだ時に、「写真論というのは写真家の軌跡で、写真人生のエッセンス、まさに人生論なのだ」と感嘆を覚えた。同時に、巷でよく見る「こういう被写体はこういうレンズで、設定で撮る。こういう風にレタッチすればこういう写真が仕上がる。」といったような方法論ではなく、「どう写真に向き合っているか、写真とはなんなのか、写真とはこうあるべきだ」を綴った写真論に自分は興味があるということに気がついた。これまでに『死ぬことと生きること』(土門拳 著, 築地書館, 1974)や『アンリ・カルティエ=ブレッソン 見ることからすべてがはじまる』(クレマン・シュルー ら編, 久保宏樹 訳, 読書人, 2021)、『写真との対話、そして写真から / 写真へ』(森山大道 著, 青弓社, 2006)などを読んだ(あるいは読みかけ)が、写真家の写真に対する考えやエピソードを知るのはとても為になる。人の考えと自分の考えを比較することで、自分は少し違うなとか、ここは共感するなとか自身の立ち位置がわかってくる。この楽しみを知ってしまったので、私は人の写真を見るよりも、その人がどのような思いで写真に向き合っているのかを知りたいと思うようになった。ただ一方で、この欲求を満たす為に本屋に行っても、写真関連の本の大部分が写真集や方法論・テクニック本ばかりで、写真論的なことを綴った本たちは隅に追いやられている印象を受けた。写真は媒体の性質上文章を付属しなくても成立してしまう部分があるので、仕方ないともいえる。このような現象はYouTubeなどでも見られ、方法やテクニック、機材レビューの動画が多い。世の中の需要を考えると、これも仕方がないと言える。自分の考えを曝け出すということは議論を巻き起こす可能性もあるので、ある意味慎重になる必要があり、なかなか発信しづらいということもあるだろう。まあとにかく、写真論の肩身が狭いと感じた自分は、求めるだけでなく自分が発信する側になろうと思った次第である。
さて前置きが長くなってしまったが本題に入ろう。今回のテーマは「流浪写真論について」である。流浪写真論とは、端的に言うと「自身の興味や生活背景、心情など大小様々な変化で写真表現や被写体は変わりゆくもので、その変化を受け入れて総体として自分を表現していこう」という考えである。この考えはある意味現在の自分のスタイルを肯定するためのものでもある。自己紹介の記事で書いたように対象とする被写体は様々である。以下に各分野を撮り始めたきっかけを時系列で端的にまとめる。
京都の風景写真(記録写真的)→大学入学当初、京都観光がきっかけ
野鳥写真→京都観光が一段落した頃に訪れた植物園で、カワセミを撮られたことがきっかけ
スナップ→コロナ禍で野鳥撮影の主フィールドである植物園が度々臨時休園になり、その期間カメラを持って細々と散歩し始めたのがきっかけ
アリ写真→大学の研究室配属で入った研究室がアリを研究していて、卒業研究でアリを研究することになったのがきっかけ
このように、生活背景や興味に応じて被写体が変化していることがお分かりいただけただろう。現在はFUJIFILM X-Pro3を購入してから常にカメラを持つようになったので、スナップは常時展開で、アリと野鳥はシーズンになると撮影といった形だ。こういったスタイルなので、Instagramの投稿は野鳥写真で染まる時もあれば、スナップ写真に染まる時もあり、またその中にポツポツとアリ写真が混在することもある。SNSにおいては投稿ジャンルを固定・統一した方が、人を集め安いと言われる。また、写真は野鳥写真家や鉄道写真家…といったように細分化・専門家しやすい傾向がある。それらとは対照的なのが、一色ではなくレインボーで自分を表現していく流浪写真スタイルだ。ある意味乱暴だが気に入っている。ただ、このスタイルは全てが中途半端になる危険性を含んでいる。その為、自身のしたい表現を定めて、それをコンスタンスに生み出せるまで、コツを掴むまでは仕上げるように努めている(ここに関しては後日別の記事で言及する予定)。
過去に自分は被写体を統一した方がいいのかと悩んだことがあった。でもそれは私の場合、自分の興味・写真の幅を狭めることになると気づいたのだ。本当は色々なものを撮りたいのにバズるから統一しようとか、他の被写体にもチャレンジしたいのに勇気がでない、自分のスタイルを変えるのが怖い、生活環境が変わったからこれまでの写真が撮れない、といったように悩んでいる方に対しての1案として流浪写真を提案したい。