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秋の俳句5句 エッセイ・俳句「鱗雲」
満月や人のからだの水動く
秋晴れの古い箪笥に住む祖先
秋の星奇数ばかりが集まりぬ
白菊やひとの祈願が密集す
潔癖な月に問いただされている
少しづつ始動している鱗雲
何かを始めると、ついつい早くその結果を出したくなる。
特に自分は、せっかちな方だと思う。
サプリメントを呑み始めてまだ3日目だというのに、なにか喜ばしい変化はないものかしらと自己観察するし、花の種を植えて1,2日で芽が出るわけもないのに、ただ真っ黒な土の表面を見ては、そこに何の兆しも無いことが、釈然としないような気持ちになる。
チェスや将棋をすれば、「こーするとあーなっちゃって、そうするとこうなるから」などと先を読んだつもりで、今現在の守りがすっかりお留守になって、取られてしまう間抜けである。
心配性が身体の奥まで沁み込んでいるのは、「先の事ばかり仮定形で考えているから」であり、気持ちの向く方向性が今現在ではなく、未来の方へ方へ、と先走りしてしまう、何とも落ち着きのない性分なので、困ったことである。
そんな私が、空一面に緩やかに攪拌された鱗雲に突如出うと、
「まあまあ」。
どこからともなく、そんな声が聞こえてくる。
「まあまあ、まあ」。
今風の言葉で言えば、「ゆるっといきましょう」ってところでしょうか。
古い友達に肩を揉まれたような、そしてその後、ポンポン、と軽く背中を叩かれたような、そんな気持ち良さである。
若しくは、珍しく良く眠れた朝に、大きく伸びをした時のような、でなければ温めのお風呂にふっと手足をほどいた時のような、そんな気持ち良さである。
鱗雲に遭遇すると、私は私の「皮膚感覚」を思い出す。
子供の頃や若い頃は、考えていることが脳からの血流に乗って、一瞬で皮膚の先々まで広がっていったような、気がする。或いはその逆もあったような気がする。
最近、そういう感覚が麻痺しているような。
しかし、鱗雲だって、中々のやり手である。
いかにものんびり、ゆったりしているように見えるけれども、
確実に、少しづつ、動いている。
しかも、端から端までの小さな雲が一斉に、じわりじわりと動いていくのである。
これは、確かだ。
これは、強い。
今取り組んでいることの結果がすぐに出ない時、
或いは、新しいことを始めようかどうしようかと、シュミレーションの迷宮から出られなくなってしまっている時、
焦らずに、いかなくちゃ。
考えすぎずに、やってみるか。
鱗雲を見ていると、そんな気持ちになったりする。
少しづつしか、変化していけないのが、当然なのだから。
結果を急ぐのはやめよう。
事の細かな進展に一喜一憂して、どんどん自分の落ち込む穴を巨大にしていくのは、やめよう。
なんたって、考えは考えを呼ぶ。それでその考えはまた考えを呼ぶ。考えってやつの増殖ぶりはすさまじい。あっと気が付いた時には、考えってやつらに周り中包囲されて、すっかり身動き取れなくなっているのだから。
なーんて考えていると、背後から、またもや柔らかな鱗雲軍団の声が、聞こえてくる。
「まあまあ」。
「まあまあ、まあ」。