なぜ人は「弱者」を攻撃したくなるのか-誰もが弱者で、誰もが加害者-
SNSのコメント欄って、嘘みたいに正義に満ちてるよね。炎上してる人に「反省が足りない!」「もっと謝れ!」って。深夜2時まで正義のミサイル発射し続ける人たち。一人一人はただのサラリーマンなのに、集まると正義の軍団に変身する。素敵なコスプレ大会。
先週、私も参加してた。「この企業の対応、酷くない?」って投稿をスクショして、LINEグループに投げ込んで。みんなで「ほんと、最低だよね〜」って盛り上がってる時の、あの安心感。誰かを叩いてる時だけ、仲間感が増す不思議。
面白いよね。弱そうな相手を見つけた時の、この高揚感。まるで宝くじが当たったみたいな。「あ、今日はこいつを叩いていいんだ」って。その日の不満を、まとめて吐き出せる便利な吐き出し口。
でも、さっき上司に怒られた同僚が、なんかやけに元気になってSNSで誰かを批判してるの見ると、切なくなる。ほら、暴力のバトンが渡されていく。怒られた分だけ、誰かを怒る権利を得た気になってる。
誰もがヒーローになりたい。でも、ヒーローには悪役が必要。だから必死に探す。誰か、今日の悪役やってくれる人を。
そうそう、この文章だって、誰かを批判することで自分の正しさを確認しようとしてるんだろうな。ほら、また新しい正義のミサイル、発射準備完了。
「いいね」を押す指が、引き金を引く指に変わる瞬間。
なんかもう、究極のオンラインゲーム。
誰かが泣いてても、画面の向こうだから見えない。
...便利な世の中になったもんだ。
暴力の転換装置
この前、上司に説教された帰り。コンビニのレジで、店員に絡んでる自分に気づいた。「この商品、ちゃんと説明書いてないでしょ!」って。で、その店員が、バイトの子に八つ当たり。暴力のリレー競技、アンカーは誰になるんだろう。
パワハラ被害者の会に参加してる知人が、自分の部下をいじめてる話を聞いた。「私は被害者なんだから」って、加害者になる特別許可証でも手に入れたみたいな顔で。被害者カード、エースカードみたいに切り札扱いしてる。
面白いよね。誰もが自分の暴力を正当化するために、過去の被害者歴をスクラップブックみたいに集めてる。「だって私だって、あの時...」って。その「あの時」があれば、今日の暴力は無罪放免。
この前の飲み会。先輩が新入社員をいじめてる場面に遭遇。「俺たちの時代は、もっと酷かったんだぞ」って。へー、暴力にも、オークション会場みたいな相場があるんだ。昔の方が高値で取引されるらしい。
暴力の転換レート、誰が決めてんだろう。上司の説教一回分は、後輩への嫌味三回分。電車での暴言は、SNSでの誹謗中傷五件分。この換算表、どこかに貼ってあるのかな。
そうか、私たちって結局、誰かから受けた暴力を、誰かに渡すことでしか消化できないのかな。
まるでフードロス。食べきれない分を、誰かの皿に押しつける。
あ、また始まった。
今日の暴力、誰に配達しようかな。
いじめという儀式
「あいつが居るから、私は大丈夫」
職場でこの言葉を聞いた時、ゾッとした。まるで、みんなで溺れないように誰かを船から突き落としてるみたい。で、その人が溺れてる間に、自分たちは岸まで泳ぐ。サバイバル番組かよ。制作費かけすぎだろ。
面白いのが、いじめっ子のLINEグループ覗くと、めちゃくちゃ仲良さそう。「お疲れ様〜」「がんばろうね!」の嵐。愛と優しさの神様が降臨してるかと思うくらい。でも、その愛情表現の代償が、誰かの涙なんだよね。この効率の良さ。
この前、電車で高校生が話してるの聞こえた。「あいつ、ウザいよね」「うん、ほんと」「でも、あいつがいなくなったら、次は誰かな」って。なんか、職場の会議で次期部長を検討してる声色と同じだった。
よく「なぜ誰も止めないの?」って言うけど、それ、おかしくない?止める役やったら、次のターゲットは確実に自分だもん。まるで、爆弾のリレー。受け取りたくないから、目を逸らす。
いじめっ子の机の中、覗いたことある?宿題忘れた言い訳の紙とか、親に見せてない赤点の答案とか。弱さの証拠品がビッシリ。でも、その弱さを見られないように、誰かの弱さを指さす。この、ダサいマジック。
「いじめはいけません」
全校集会で校長先生が言ってた。
でも、その帰り道、みんなで「校長、今日の話ヘタクソだったよね」って。
結局、この世界は弱さを探し合うオークション会場なのかも。
今日は誰の弱さが、最高値を付けるかな。
加害者の弱さ
電車でスマホの画面見てたら、子供の頃いじめっ子だった奴が、今はパワハラ被害を告発するアカウント運営してた。なんか笑っちゃった。でも、その笑いが引きつる。だって、私だって人のこと笑えないじゃん。昨日も後輩に「冗談」って名前の嫌味、言ってたし。
強い人って、本当は居ないんだよね。みんな、強いフリして震えてる。震えてる自分を誤魔化すために、誰かを震わせる。この、意味不明なストレッチ。
面白いのが、ネットの誹謗中傷してる人の投稿遡ると、だいたい自分の不幸の話してる。リストラされた、借金がある、家族に無視された。その自分の弱さを、誰かの炎上に重ねて燃やしてる。まるで、自分の弱さという生ゴミを、誰かの家の前に捨てに行くみたい。
この前、上司が新入社員を怒鳴ってた。「お前みたいなのが会社にいるから...」って。でも、その「お前みたいな」って、絶対自分の中の誰かのことだよね。昔の自分とか、憧れてた先輩とか。結局、誰かを叩くって、自分を叩いてるのと同じなんじゃないかな。
夜の公園のブランコで、誰かの悪口書いてるの見つけた。きっと、その文字を書いた人も、どこかで同じように書かれてる。この無限ループ。イジメの輪廻転生。
そうか。私たちって、自分の弱さから目を逸らすために、誰かの弱さを探してるのかも。
...って書きながら、また誰かの弱さを探してるな、私。
あ、また始まった。
弱い私が、誰かの弱さを探し始める時間。
弱さの連鎖
深夜のコンビニの前。タバコを吸う男が、わざと大声で電話してる。
「あいつ、マジないわー」って。
誰かの悪口、張り上げてる。
でも、その声が震えてる。
思い出した。昔、学校の屋上で誰かの上履きを投げ捨ててた時の、あの震え。優越感で震えてたんじゃない。怖かったんだ。明日は自分の番かもしれないって。
最近のSNSのタイムライン。
誰かを叩いてる投稿に「いいね」押して。
誰かの失態を笑って。
誰かの人生を断罪して。
でも、画面に映る自分の顔が、なんかヘタレてる。
強者のフリして、弱者の演技して。
この二役をこなす、しょうもない役者。
結局さ、私たちって誰かを叩くことでしか、自分の存在証明ができないのかな。
まるで、誰かの背中を踏み台にしないと、自分が立ってられない豆腐メンタル。
そういえば、この文章だって。
誰かの弱さを笑うことで、自分の弱さを誤魔化そうとしてる。
この感じ、なんか懐かしい。
学校の屋上で上履き投げ捨ててた、あの頃みたい。
夜空見上げる。
星、一つも見えない。
でも、きっとどこかで誰かが、同じように空見上げて震えてる。
弱い私と、弱いあなたの、この永遠の腕相撲。
...結局、勝者なんていないんだ。
ただの弱者の、大運動会。
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