なぜ人は「普通」を求めるのか-普通という名の、見えない縛り-
電車で聞こえてくる女子高生の会話。「普通に無理」「普通にやばくない?」「普通に考えて」。この「普通に」の連呼。まるで、接続詞か句読点みたいな使われ方。
気になって数えてみた。3分間で「普通」が12回。チャンピオン並みの記録だ。でも、その横で私も「普通に凄いな」って思ってる。完全に感染してる。この「普通」依存症。
この前、同僚が企画書に「普通の主婦をターゲットに」って書いてきた。「普通の主婦って何?」って聞いたら、「え、その...普通の...」って。誰も定義できないのに、みんなが分かったフリをする謎のワード。
面白いことに、「普通じゃないね」って言われると妙に傷つく。褒め言葉のつもりで言われても、なんか心に引っかかる。「変わってるね」とか「独特だね」とか、それ系の言葉全部。言われた瞬間、「あ、はみ出してるんだ」って気づかされる。
先日、上司が「普通はこうするよね」って説教してきた。その「普通」の根拠を聞こうものなら、「いや、常識的に考えて...」って。結局、自分の価値観を「普通」って言葉でごまかしてるだけ。
でも、その上司の言う「普通」に、反射的に頷いてる自分もいる。「普通」という言葉の、この不思議な強制力。誰も定義できないのに、みんなが従う見えない縛り。
電車の中、「普通に」連呼の女子高生が降りていく。入れ替わりに乗ってきたサラリーマンが「普通に考えて、それはないっすよ」と電話している。
この電車も、きっと「普通」という名の終着駅に向かってるんだろうな。
...なんて考えてる時点で、普通じゃないのかもしれない。
曖昧な「普通」の正体
マウンティングって面白い。「普通、この年齢で家は買ってますよね」「普通、その程度は英語話せますよ」。この「普通」を振りかざす感じ。要するに、自分の持ってるものを「普通」にして、持ってない奴を異常者に仕立て上げる魔法。
先日、実家で母が「普通の結婚式」の話を始めた。「普通の結婚式」って何だろう。この場合の「普通」は、母の青春時代の価値観をそのまま冷凍保存した基準なんだろうな。賞味期限、とっくに切れてそうなのに。
面白いもので、「普通の人は〜」って説教する人ほど、自分が普通じゃない。この前の会議でも、部長が「普通の社会人なら、これくらい当然...」って熱弁振るってた。いや、普通の社会人は、土曜の昼間に延々と会議なんかしてないから。
「普通に考えて」が口癖の同期がいる。何回も言うもんだから、「普通って何?」って聞いてみた。そしたら「え?普通は普通でしょ」だって。この完璧な論理の循環。でも、妙に説得力がある。
時代とともに「普通」も変わる。昔は「普通、家電は国産だよね」が、今や「普通、中国製でしょ」。でも、その移り変わりの瞬間を、誰も記録してない。いつの間にか、昨日の「普通じゃない」が今日の「普通」になってる。
SNSでも「普通の日常」が人気らしい。ただ、その「普通」を演出するために、異常な努力をしてるって言う。普通のコーヒーを普通に撮るために、完璧な角度を探して30枚くらい撮り直す。この普通じゃない「普通」への執着。
考えてみれば、「普通」ってすごく便利な言葉だ。定義する必要もないし、責任も取らなくていい。「普通はこうだから」って言えば、なんとなく通っちゃう。この曖昧さこそが、最強の武器なのかも。
そういえば、この文章にも「普通」って単語、異常に出てくる。
...まあ、普通はそうだよね。
「普通じゃない」という烙印
子供の頃、「普通じゃないわね、この子」って言われたの、今でも覚えてる。親戚のおばさんの何気ない一言。そんな昔のことなのに、なぜかゴミみたいに心の片隅に残ってる。
面白いもので、誰かを否定したい時、「普通じゃない」って言葉が一番効く。「バカ」とか「ダメ」とかより、この言葉の方が深く刺さる。まるで、人間社会から除外通知を受け取ったみたいな感覚。
「あの人、普通じゃないよね」
この言葉を聞くと、なぜか同意したくなる。同意することで、自分は普通側の人間だって証明したいのかも。なんて醜い防衛本能。でも、その言葉を言った次の瞬間、「私のことも、誰かがそう言ってるかも」って不安になる。
この前、「個性的でいいじゃない」って褒められた。でも、なんか落ち着かない。この「個性的」って言葉、「普通じゃない」のビジネスクラス版でしょ。同じ意味なのに、なんとなくお洒落に包装されてる。
会社でも「普通じゃない」は最強の武器。「普通、こんな企画は通らないよ」「普通の感覚ならそうは考えない」。この「普通」マウンティング。相手の人格まで否定できる、便利な言葉。
でも、言われる方はたまらない。「普通じゃない」って指摘された瞬間、自分の全てが間違ってるような気がしてくる。幼稚園からずっと、この言葉との戦い。結局、私たちは「普通」という幻の基準に追われ続けてるのかも。
そういえば、昨日も「普通じゃない服装だね」って言われた。
褒めてるのか、けなしてるのか、分からない言い方。
でも、なんとなく気分が悪い。この微妙な不快感の正体は何なんだろう。
きっと、誰もが「普通じゃない」って烙印を押される恐怖と戦ってる。
...って考えるの自体が、普通じゃないのかな。
個性と普通の微妙な関係
「君は君らしくていいんだよ」
「普通じゃなくていいんだよ」
こういう励ましの言葉って、なんかむなしい。だって、それ言ってる人自身が「普通」にしがみついてるじゃん。休日にインスタ映えするカフェ行って、普通に美味しかった系の投稿してる人が何言ってんの。
「個性的」って言葉の使い方も面白い。褒め言葉として使う時は「素敵な個性」で、けなす時は「独特な個性」。同じ「個性的」なのに、ちょっと言い方変えるだけで、天国と地獄くらい意味が違う。
この前、同期が「普通の人を演じるの疲れた」って愚痴ってた。でも考えてみれば、「普通の人を演じる」って時点で、もう普通じゃないよね。普通の人って、普通を演じる必要ないでしょ。この矛盾に気づいた瞬間、余計疲れそう。
SNSの投稿見てると笑える。みんな必死に普通の日常を演出してる。普通のランチ、普通の休日、普通の幸せ。でも、その普通を撮影する角度が、異常に考え抜かれてる。普通を装うための、普通じゃない努力。
「普通に考えて」が口癖の上司が、実は深夜アニメのガチ勢って知った時の衝撃。普通のスーツの下に、推しキャラのTシャツ着てるとか。なんか、むしろ好感持てる。帰りの電車で、その上司が「普通に」って言うたびに、脳内で「でも、推しキャラは〇〇だけどね」って突っ込んでる。
考えてみれば、誰もが「普通」という仮面をかぶってる。でも、その下で必死に個性を押し殺してるわけでもない。ただ、その個性をどう見せるか、いつ見せるかって話なだけ。
結局、普通を求めるのも個性だし、個性的なのも普通なのかも。
...って、もう何言ってるか分かんなくなってきた。
ていうか、こんなこと考えてる時点で、かなり普通じゃない気がしてきた。
でも、そう思うのも、めちゃくちゃ普通なんだろうな。
深夜のコンビニで
「普通にお願いします」
コンビニの店員に、おでんを指さしながら言ってしまった。「普通に」って何だよ。大根一個なのに。でも、店員さん、ちゃんと理解してくれた。この不思議な「普通」の通じ合い。
レジの横の雑誌コーナー。「普通の主婦が始めた〜」「普通のOLが見つけた〜」。この「普通」という謎の権威付け。普通じゃない主婦が始めても、普通じゃないOLが見つけても、同じ結果にたどり着きそうなのに。
深夜のコンビニに集まる客たち。みんな、どこか普通じゃない時間に、普通じゃない感じで、普通の商品を買っている。この光景の何が普通で、何が普通じゃないのか。もう、分からなくなってきた。
そういえば、この前コンビニのバイトの子が「普通に考えて、こんな時間にアイス買う人って...」って言ってるの聞こえた。深夜にアイスを買う客のことを、普通じゃないと思ってる自分が、普通だと思ってる瞬間。この入れ子構造みたいな「普通」の基準。
結局、誰もが「普通」を求めているのかもしれない。でも、その「普通」は人それぞれ違う。私の普通は誰かの普通じゃないし、誰かの普通は私の普通じゃない。なのに、みんなが「普通」って言葉で、なんとなく分かった気になってる。
おでんの大根を食べながら考える。この深夜のコンビニで、一人でおでんを食べてる自分は普通なのか、普通じゃないのか。答えなんてないんだろうな。でも、この答えのなさが、むしろ普通なのかも。
「普通に」美味しい。
「普通に」温かい。
「普通に」しみる。
この「普通」を連呼する私って、普通なのかな。
...って考えてる時点で、もう普通じゃないか。
レシートを丸めて捨てる。隣のゴミ箱には、誰かの食べかけのおでんの串。
普通なら、こんな光景にシンパシーは感じない。
でも今日に限って、なんだか仲間に出会えた気がした。
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