不自由さを体験することの本当の重要性

インターネットの通信障害

マレーシアに来て一か月。初めてのインターネットの通信障害。
全然ネットにつながらない!!ピンチ!
そこで感じたこと。


日本に暮らしていると避けられない?!自分を支配するものとは

日本にいると電気、水、電話やネットなどインフラのダウンって災害時以外はほぼない。あったらニュースになるほど。
そういう環境にずっといて、それが当たり前と思って生きていると、「万能感」「有能感」が知らぬ間に自分を支配してくる。

電気や水、ネットだけじゃない。24時間開いてるコンビニやスーパー、翌日には届くネットショッピング、そこかしこにある自販機やATM。
便利に感じることを通り越して、自分が何でもできるように感じてしまう。何でも簡単にできるということは、何でも思いどおりになるということと勘違いしやすい。


頭ではわかってる。すべて思い通りになるわけじゃない。

しかし、当然何でも思いどおりになんてならない。もちろん頭ではわかっている。けど、これだけインフラが整備された環境にずっと身をおいていいたら、勘違いしないでいることはとても難しい。
つまり、日本に住みながら、「何でも出来る」「何でも思いどおりになる」という感覚を持たずに暮らすことは、めちゃくちゃ難しいことなのだ。

使えるはずのものが突然使えなくなった時にイライラするのは、不便だからじゃない

そうなると、それらが使えなくなった時に、ものすごくいらいらする。今日のネットのダウンも、たぶん日本なら大騒ぎなんだろうな。電車が運行ダイヤが乱れただけでもニュースになるんだから。ネットのダウンなんて許せないって怒る人もいっぱいいるだろう。

なぜ怒るのか。不便だから?いや違う。当然できるはずのことができないこと、自分の思った通りにならないことに対するフラストレーションだろう。


便利過ぎる社会では、人は人を責めるようになる

便利すぎる社会において、インフラに不具合が出た時は、やたらと謝罪したり、責任取って辞める人を見ることがある。(特に日本)そういった環境にいると、人々も「ネットが止まるとはなにごとじゃ!」と怒ってもいいというお墨付きをもらったように勘違いしてしまう。
こうしてさらに人は人を責めたくなる。

でもさ、そりゃあ止まることもあるだろうよ。
迷惑かけてやろうとして止めてるわけじゃないんだから。メンテナンスで、しかたなく予告なく止まることもあろう。(今回の通信障害はこのエリア全体に及ぶもので、おそらくメンテナンスによるものだった。)

実際、近所のショッピングモールの中のお店も、QRコード決済系がみんなできなくて困ってたし、私もそんな日に現金持ち歩いてなかったのも悪かったけど、ジュース買おうとして買えなかった。でも誰も怒ってなかった。店もお客も、「オッケー、仕方ない。」って。

日本ほど便利じゃない国には、「ま、そんなこともあるよね。」ってみんなで許しあえる余裕がある気がする。
便利になればなるほど、人々の余裕はなくなるのかもしれない。皮肉だけど。


不自由さを体験することの本当の重要性とは

不自由さを体験することの本当の重要性は、知らぬ間に自分を支配している万能感や有能感に気づくことなんじゃないだろうか。
そして、「なるようにしかならない」と諦観したり、「そんなこともあるよね」と許容するゆとりを持てるかどうか、自分自身に問うきっかけになることなんだと思う。

日本を出て改めて気づいたこと。


現在息子3人とマレーシア暮らし。海外に来た一番の目的は英語教育のためではありません。きっとこういうことに気づくため。息子たちが何を感じているかはわからないけれど。著書↓


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