井原市の先人、近代日本医療に貢献した緒方研堂

画像1 山成酒造の昔の玄関から細い旧道を南へ進むと小田川の堤に至る。ここに大戸郁蔵こと緒方研堂の旧宅がある。後月郡簗瀬村(現在の井原市芳井町)で大戸万吉の長男として生まれ、漢学者であり蘭学医の山鳴大年について漢学を学び、大年の勧めによって、江戸に出て、津山藩の儒学者昌谷精渓に漢学、誠軒坪井信道の塾に入り蘭学を学び、誠軒の塾で足守の出身である緒方洪庵と出会い、洪庵に指導を受けた。
画像2 緒方洪庵が天保9年、大阪で適塾を開業、研堂は塾頭となり、蘭学や医学を研究する傍ら、門弟を教え、患者の治療の手助けをした。その後、研堂は洪庵と兄弟の約束を交わし義弟となり、緒方研堂と名乗った。  研堂は後に独笑軒という塾を大阪に開き、それ以来人々は洪庵の塾を北の緒方、研堂の塾を南の緒方と呼ぶようになった。  明治2年(1868)明治新政府は大阪に病院を開くが、このとき研堂は少博士として招かれ、洋書の翻訳、教授及び治療に従事した。  明治4年(1871)、56歳で没し、墓は洪庵と同じ大阪天満町の竜海寺にある。

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