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言葉なんて大っ嫌い
「茶色を定義するには、茶色以外のすべての色を列挙しなければならない」
と、どこかの坊さんが言っていたが、これこそ言葉の本質を表しているように思う。ソシュールの言語理論によれば、言葉は意味そのものを直接表現しているわけではない。先ほど言った茶色について、例えば茶色一色しかない世界に暮らしている民族がいたとして、その民族の言語に茶色を指す言葉はあるだろうか?
言葉の世界はひとつの大きな箱に、いくつもの風船がギュウギュウに押し込まれているようなものだ。ギュウギュウだから当然ひとつひとつの風船は歪な形に変形している。何が言いたのかというと、ひとつの風船の形状はその周囲にある風船の形状によって決められているという事。風船=言葉だとすれば、ひとつの言葉の意味は他の言葉によって決められている。茶色という言葉は、茶色でないすべての色によって意味付けられているのだ。
言葉は「〜でない」としてでしか意味を表現できない。言葉はそれを指す物の意味を直接表現できず、周囲の言葉によって意味付けられる。他の言葉によってでしか意味を表現できないのならば、つまり言葉が表現しているものは不在だ。茶色という言葉は、茶色だけが不在の状態によって茶色を表現している。
茶色の風船の中身には空気しかない。茶色の風船を形作っている周囲の風船も、同じく中身のないものだ。
ソシュールが明らかにしたのは、言葉の空虚さだった。
しかしここで疑問が生じる。先ほど例に出した風船の例え。このすし詰め状態の言葉の世界は、どのように生成されたのか。一番最初に入れられた風船は、周囲の風船がないから形を作れない。他の風船の「〜でない」形状がその風船の形状であるならば、単体の風船では形が決まらないはずだ。この理論でいけば、風船のすし詰め状態は、一個ずつ箱に風船を入れて作るのではなく、風船をすべて同時に箱に入れなければならない。これが言葉の共時性と言われるやつ。単体では意味を持たない言葉は、すべて同時に存在している必要があるのだ。
子供はどうやって言葉を覚えたのだろう。
これを解決したのがラカンのエディプスコンプレックスだった。言葉のない世界の赤ん坊は、はじめは満たされた世界で生きている。しかし他の世界の侵略を受け、これまでの満たされた世界は、実は何かが欠落しているのではないかと不安に感じるのだ。そこで赤ん坊は世界に欠落している部分を補うために、ファルスと呼ばれる最初の言葉で埋め合わせる。このファルスは音のない象徴的なものだ。
ファルスで埋め合わせた事で一瞬満たされた赤ん坊だったが、不安はここで終わらない。いくらファルスで埋め合わせても、まだ欠落しているように感じる。ファルスの埋め合わせが物足りなかったか、もしくは更に別の世界の侵略があったのかもしれない。とにかく、埋め合わせてもなお止まない不安を取り除くべく、さらに言葉を作り出していくのだ。こうして言葉の世界が生成されていった。
赤ちゃんに降りかかった強烈な不安は、大人になっても取り除かれない。ファルスが空虚な埋め合わせである延長で、いくら言葉を覚えても世界は一向に満たされない。言語思考は空虚な言葉の埋め合わせでしかないからだ。人間がどこまでも飢えているのは言葉のせいかもしれない。
満たされた世界を夢みて、その周囲を回り続ける。これをラカンは対象aと呼んだ。対象aが周る中心には、けしてたどり着けない対象A(大文字のA)がいる。対象Aとは満たされた世界のことで、ファルスでついに埋め合わせられなかった実現不可能の世界だ。
もちろん、言葉には素晴らしい側面もある。言葉が空虚であるからこそ、様々な意味を持たせられたりする。夕日や星空に僕らが感動できるのは、言葉があるからだ。
ただし、やっぱり僕には言葉が呪いのように感じられてならない。何かを欲望し、これでやっと満たされると信じて手に入れようとしたのに、いざ近付いてみるとやっぱり満たされない。まるで目の前に人参をぶら下げた馬みたいじゃないか。
言語思考をする僕らは、赤ん坊の時から続く「満たされない呪い」からは逃れられないのだろう。本当に逃れられないのなら、目の前に吊るされた人参に決して辿りつけないのなら、それを知った上で走り続ける事もアリなんじゃないかと思う。もちろん、裏切られる事も込みで。
…そう思っても、やっぱり本当は満たされたいんだよね。言葉なんて覚えるんじゃなかった。
ここで終わるつもりだったけど、もう少し余談を。
タナトスという死への欲望は、人間だけでなく動物にもあるとフロイトやバタイユは考えた。なぜなら、死ぬと分かっているのに生殖する動物もいるから。けれどラカンや後の哲学者はこれを否定している。動物が自ら死に向かうのは、ただ本能のプログラムに従っているだけで、欲望しているわけではない。死への欲望は、人間だけの症状らしい。なぜ人間だけ?そう、言葉だ。
生殖=死というのは動物も人間も共通だが、ただ本能に従っているだけで死が現象でしかない動物に対し、言葉を持つ人間の欲情には意味がある。ラカンに言わせれば人間の生殖は死の欲望、それも自殺らしい。
僕の解釈になるけれど、死の世界というのはバタイユの言う連続性。分裂した個ではなく、繋がりの世界だと思う。隔離された個の牢獄から解き放たれて、永遠の世界と繋がりたいと願う欲望。言葉でついに埋め合わせられなかった、赤ん坊の頃の満たされた世界に回帰したいと願う欲望。これが死への欲望に繋がっているのではないだろうか。
やっぱり、人間って錯綜しているね。錯綜している僕が言うんだから、錯綜しているから間違っているかもしれないけれど間違いない。