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【本要約】浅田彰『構造と力』④

4、力

浅田はレヴィ=ストロースの構造理論を、構造の内部しか見ていないと批判している(これだけでなく、本書中でレヴィ=ストロースとユングは何かと批判の的だ。かわいそう)。レヴィ=ストロースは先に言った象徴秩序を、静的なものと捉えていたきらいがあるというのだ。登場人物たちを象徴秩序の各役割にきっちり配置してしまえば、あたかも秩序と均衡は保たれているとでも言わんばかり。例えば、2〜3項で説明した象徴秩序を、レヴィ=ストロースは“冷たい社会”と呼んでいる。穏やかならぬモースの贈与の円環を知っている僕らなら、とてもじゃないが原始の象徴秩序を冷たくて静的だとは思わないはず。象徴秩序とは人間社会の表層に現れる構造にすぎず、その裏側では贈与の円環のように、ダイナミックな力の活動が繰り広げられている。浅田による構造主義への批判は、彼らが表層の構造のみに着目し、その外部で活動し続けている力のドラマに、ついに目を向けることはなかったから。

ラカンの精神分析が現代思想に転用可能だと判明した時点で、この力の存在は明らかだった。ラカンの精神分析で象徴秩序に該当するのは“象徴界”。象徴界とは人間の精神内部にある象徴秩序のようなものだ。ラカンによると、この象徴界が生成されるには、幼児の主観世界の欠落を言葉(ファルス)で補うことによって、はじめて参入されることになっている。ならば社会の象徴秩序が生成されるには、ラカンにおける言葉(ファルス)にあたる何かがあるはずだ。実はすでに答えは書いていた。人間の過剰さ、これだ。

人間の過剰さ、つまり人間が持て余す力こそ、象徴秩序を作り上げた原動力だったはずだ。この力と象徴秩序の関係性、または相互作用性を研究したのがクリステヴァだ。
彼女の理論は象徴秩序と力のシンプルな二層構造だった。

表層の象徴秩序は、下層にある力に活動に常に脅かされている。象徴秩序は平穏を維持しようと力を抑えつけているが、まれに力の氾濫を抑えきれずに侵入を許してしまう。力の侵入を許した象徴秩序は、一時的に解体され、再構築される。再構築された象徴秩序は再び抑止力を取り戻し、次の力の氾濫が起こるまで秩序を保ち続けるのだ。

さて、クリステヴァは下層の力を“女性性”とした。一方、象徴秩序は”男性性“である。先に「贈与の円環の動力は女性である」と語った理由がここにある。男性の築く社会を、女性的な力が反乱を起こして新しい世界を再構築するという世界観だ。しかし、浅田はここにクリステヴァの理論には限界があると指摘した。男性社会に向けられた女性の力は、あまりに一方向すぎはしないだろうか。クリステヴァの視点は、明らかに男性の鏡としての女性像の域をでない。女性たちの活動はもっと軽やかで、定まらない奔放さこそが売りではなかったか?力も同様、けして全てが象徴秩序への反乱に向けられたものではないはずだ。浅田はクリステヴァを、これまで放置されてきた力の存在を詳細に研究したと評価しつつ、彼女の理論はあまりに二元論的だと限界を指摘した。
もちろんクリステヴァの理論は、この指摘によって完全に破綻したわけではない。象徴秩序を脅かし、再構築を促す力の構図は浅田も認めているところだろう。ただ、”それだけでは網羅できない“という話だと思う。

クリステヴァを通過した今、ここで多方向の力の動きを考える必要が生じた(あ、この要約は順番が無茶苦茶だから、僕が勝手にストーリー付けしてるだけね)。
多方向に錯乱する力の行方を図にしてみよう。

過剰な力は限られた敷地の中に氾濫し、あぶれた力が垂直方向に押し出される。この垂直方向の力の行方こそ、次に探るべき対象だ。ちなみにラカンの精神分析をこれに当てはめると、垂直方向の力は“浮遊するシニフィアン”になる(ほんと何なんだよこの人。どこにでも居るじゃん)。ちなみにラカンよりもずっと前に、力の垂直運動を予見していたのはマルクス、ニーチェ、フロイトの三人(コイツらもやばい)。というよりねえ、そこの三人!君達が色々と先取りしすぎたせいで、哲学史の流れが無茶苦茶になっているんですよ!そのおかげで時系列順の解説書が読み辛いのなんのって。三人とも後で職員室に来なさい。

力が垂直方向に押し出されると聞いて「あれ?これって贈与の円環で解消していたんじゃないの?」と思ったあなた、鋭いけどちょっと違う(ちゃんと読んでくれてるようで嬉しいよ)。贈与の円環は確かに過剰な力を受け流し、闘争を回避する手段であった。しかしそれは、問題を先送りにしているにすぎない。各個が持つ過剰さは、贈与の一撃を隣人に与える事によって本人はたしかに解消されるが、一撃を受けた隣人は、さらなる隣人に一撃を加えなければならなくなる。過剰な力は人から人へと移動こそするが消え去る事はない。遅かれ早かれ、空間のなくなった力はやがて垂直方向に押し出されるだろう。やはり、この力の行方を追わねばなるまい。これを説明する人物は…。そう、あの変態を呼ぶ時がついに来てしまったようだ…。

ジョルジュ・バタイユを浅田は「今の時代は彼のものとなった」と評価している(でも浅田先生!こいつ特殊性癖のヘンタイですよ!)
バタイユが研究したのは、まさに垂直方向へと押し出された力の行方だ。その答えは祝祭と戦争。ただし本書で扱われているのは主に祝祭なので、ここでも祝祭について説明しよう。
祝祭では民衆が狂乱の中に身を投じ、己の過剰さを爆発させる。この狂乱に、もはや秩序はない。ときに祝祭は生贄を残酷な方法で殺害するという事実が、これを物語っているだろう。垂直方向に氾濫した力は、この祝祭によってはじめて消化されるのだ。
この祝祭は、贈与の円環とは明らかに違う性質をもつ。それは祝祭が象徴秩序のルールを侵しているということ。贈与はあくまで秩序のルール内の運動であるのに対し、祝祭は普段は禁止されてある残酷さ、無秩序さを許容しているのだ。バタイユの理論の根幹を成すのは禁止と侵犯。禁止されてあるからこそ、侵犯する意味がある。下の図に示そう。

下方にある象徴秩序の平面は、ルールで守られた秩序の世界だ。垂直に飛び出した力は、禁止のルールを飛び出して祝祭によって霧散する。一方、贈与の円環は象徴秩序の内部で行われているので、この閉じた世界からは抜け出さない。これで“禁止があるからこその侵犯”と言った意味が理解できただろうか。
過剰の力は自然消滅しない。だからこそ、許された禁止の解除によって垂直方向に氾濫した力を、象徴秩序の外側へと吐き出す必要があった。祝祭は象徴秩序を保つ上で、重要なシステムのひとつなのだ。

さて、これで大まかな力の説明を終えたわけだが、何故このタイミングで力について説明する必要があったのか?それは力の概念を知っていなければ、次項で扱う近代〜現代を説明できないからだ。なぜか?
死せる王を頂点とした象徴秩序は、次の時代でさらなる変化をみせる。僕たちが生きている時代だからわかると思うけど、この世界に王なんている?(ややこしいから貨幣は除くよ)。祝祭は?…どちらも無いよね。じゃあ現代は無秩序な世界に回帰してしまった?いや、これもまた違う。かつて象徴秩序を保っていた王と祝祭は、いったいどこへいってしまったのだろう?表層しか注目しなかった構造主義が、近代現代を説明できなかった理由がここにある。これを担うのがドゥルーズ=ガタリのポスト構造主義。ついに本書の真打ち登場だ。

ここで残念なお知らせがひとつ。ここから先は、ついにラカンの精神分析が適用外となる。長らくお世話になったラカン君は、もう家に帰っていいよ。じゃあ一緒にマルクス君とニーチェ君も…。

…え?君たちはまだ居るの⁈

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