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【感想】浅田彰『構造と力』⑦

7、感想

スピルバーグの『フェイブルマンズ』という映画は、スピルバーグ自身の伝記映画であるにも関わらず、伝記映画らしからぬ寓話感に溢れている。それもそのはず、タイトルのフェイブルマンも寓話という意味らしい。映画の中のスピルバーグ少年は映画が大好きで、自主映画を友達同士で撮って楽しんでいるんだけど、それを撮っている映像もあえて作り物っぽく、映画感に溢れているのだ。極め付けはオチのアレ。見た人なら分かると思うけど、あのオチは最高に爽快だし、ユーモアに溢れていたよね。
スピルバーグは自分の人生を映画的に捉えていたんじゃないだろうか?フェイブルマンズでは、主人公をもう一人の自分が外からカメラで撮っているという、奇妙な妄想をするシーンがある。

なぜこの話をしたのかというと、浅田が例えに出した“ふたつの教室”。これは近代人の内面化した監視者を表した例え話だが、フェイブルマンズの自分自身を撮るもう一人の自分は、はたして近代の監視者に当てはまるだろうか?たしかに、ある意味では一致する。しかしフェイブルマンズに見たもう一人の自分は、監視者の性格を帯びていない。内面化した監視者は、かつての王と違って遊びを許さないし、主人をせかし続ける。しかしフェイブルマンズに見たそれは、監視ではなく気楽に“鑑賞”していたからだ。
一度内面化された王は、もう外部には取り出せない。それならば、監視者を鑑賞者にしてしまうのはどうだろう?映画の中で酷い目に遭う主人公を、僕らがポップコーン片手に楽しんでいるように。「おれの主人、また馬鹿やってるよ」くらいの気軽さがあれば、背後に感じる不在の視線が少しは軽くなる気がする。
ドゥルーズ=ガタリのリゾームではないけれど、近代の息苦しさに耐えかねて過去の時代を取り戻そうとするのではなく、その先へと突き抜けること。監視者を倒すのではなく、監視者を受け入れた上でどう生きるか。「昔はよかった」だなんて辛気臭い話、何の意味もないってみんな分かっているでしょう?
1983年に出版された『構造と力』が今でも本屋に並んでいるのは、近代の暗さを理論化している所ではなく、その先へと向かおうとする浅田彰のポジティブさだと思いたい。うん、きっとそうだ。

さて、実はこの要約作業に、僕の盆休みがほとんど持っていかれた。この本だけでなく、参考になりそうな本もそこそこ読んだし、どう要約すれば分かりやすいのかも結構悩んだ。そもそも一般ピーポーの僕なんかが、現代思想に手を出すなんて背伸びもいいところだ。苦労するって事は初めから分かっていたはずなのに、どうしてそんな事をしたのかって?いやいや、これこそリゾーム的じゃないか。

僕は小説を書くのが趣味なんだけど、才能がないのでまあパッとしない。だからプロを目指すわけでもなく、ただ友人に送って嫌がらせするのが目下の目的だ。でもやっぱり虚しくなる時もある。どうしてこんな事をしてるんだろう?何も得る事がないと知りつつも、アホみたいにタブレットと睨めっこする僕に、自分自身がシラけてしまう。でもそんな無意味な行動を肯定してくれるのが『構造と力』だった(だから全部浅田のせいだよ)。はじめて読んだ時は意味不明だったけど、それでも無意識にニュアンスだけは汲みとったんじゃないかな。目的のために運動するのではなく、運動そのものを遊戯すること!シラけていた時の僕は、たぶん無意識に目的や価値に執着していたと思う。それはクラインの壺をぐるぐる回る欲望みたいに、けして満たされる事のない渇きだった。これをリゾーム的に変換できれば、ただ運動している事を直接肯定できれば、もっと思い切りよく生きられる気がした。一応言っておくけど、これは別に目的を忘れようって言っているんじゃないよ。執着しすぎるな、という事。目的はあっていいし、真剣に目指すべきだと思う。だって遊戯は真剣じゃないと面白くないでしょう?いつも全力で遊んでいる子供を見習うべきだね。僕が小説を友人に送りつけるのだって立派な目的だし、真剣に嫌がらせをやっているんだから。
結果的には同じ行動でも、その姿勢によって道化と遊戯は大きく異なる。目的のための運動なのか、運動のための目的なのか?あるいは監視者なのか、鑑賞者なのか?

この要約を書くという作業こそ、何にも繋がらない無駄な労力だと思った。作品ではないから他人に見せたって仕方ないし、この知識をどこかで生かす気もないんだから。しかし目的に執着しない、気軽なギャンブラーこそリゾーム的だったはずだ。せっかくの連休を『構造と力』の要約で無駄にしちゃうなんて、なんて楽しげ!この作業はある意味自分に対する挑戦でもあった。『構造と力』を(凡人のできる限りで)要約する事を目的に、僕は全力で取り組めるのか?終わった後は、得たものをさっさと放り投げてしまうと知っていても?
結果、最後の感想に差し掛かって爽快な気分でいる。夏休みにプールに行った帰り道、疲れ切った身体を心地よく感じながら、アイスクリームを頬張っている子供みたい。この子供に「プールで遊ぶなんて無駄な事してないで、もっと自分のためになる事をしなさい!」なんて言わないでしょう?(意外と言っている人もいるのかな…。僕からすれば子供こそ尊敬の対象なんだけど)。本要約では触れなかったけど、ドゥルーズの“接続と切断”という概念は、くっ付いたり離れたりを繰り返す、遊牧民的な生き方を指す。プールにいる間は全力で遊び、終わったらさっさと忘れて家に帰る。大人だってできるはずだ。少なくとも、この要約作業を通じて僕は楽しかった。この感覚を得られただけでも、この作業には意味があったと思う。

以上。最後まで付き合ってくれた方、本当にありがとうございます。分かりやすかったのか、間違っていないのか、いろいろ聞いてみたいけど、批判が怖いので聞かないよ。でもありがとう!

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