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共に暮らすには1分間の努力が要るのかも/いっぱしの女
氷室冴子著『いっぱしの女』を読みました。
このエッセイがすごいのは、初出は1992年なのに、今読んでもほとんど引っ掛かりがない、どころか共感する部分があり過ぎるところです。
読みながら何度も、あれ?となって刊行年を確認しました。
時代の隔たり故の考え方や発想や思い込みに
ギョっとしてしまうことが、無い。
(差別語は登場するけど、排他意識は感じない)
以前も書きましたが
それはとても、稀有なことです。
この本の中で、過去に女友だちとシェアハウスをし、後に解消した体験が綴られています。
当時、シェアハウスという言葉も概念も、一般的ではなかったはずです。
文中では「気が合うという、ただそれだけのつながりの人々と、ひとつ屋根の下で暮ら」す、という表現で、これって今で言うシェアハウスじゃん、と驚きました。
時代、先取ってる。
同居解消の理由を、著者は彼女たちに男が出来たことだと認識していました。
でもずっと後になって、1人の女友だちが「淋しかったこと」を理由にあげます。
「貴女が一緒にご飯を食べてくれたら」
「わたしはあの頃、すごく淋しかった」
「よく、ひとりでオルゴール聴いてた」
そう振り返る友を前にして、ああ、1分間、一緒にオルゴールを聴けばよかったと、著者は思いを馳せるのです。
***
間柄が友だちでもパートナーでも親子でも「共に暮らす」って、そういうことなのかもしれないなと思いました。
生まれや育ちや、あるいは性別や国籍や背景も違う相手と暮らすのだから…
いや、よしんば全て合致していたとしても
そしてどんなに親しい仲であっても
相手は紛れもなく他者なのだから
自分とはもちろん異なった考えを持っていて
同じものを見ていても違う感じ方をするはず。
孤独が平気な人と
そうでない人。
何を淋しいと感じて
何を嬉しく思うか。
それぞれ別に住居を構えていて、時々お出かけする関係なら、会っている時間いっぱい、相手に寄り添い、気遣い、楽しく過ごす為に全力を傾けることが出来るでしょう。
でも、共に生活をして四六時中一緒にいるとなれば、どうしても忙しくて相手に向き合う時間が無くなることもあるし、相手の状況を慮る心の余裕がなくなることも、あります。
そんなときでもせめて、相手に1分間だけ寄り添う気持ちを惜しまないこと。
しっかりと向き合うこと。
その1分間の努力が、愛ってやつなのかもしれません。