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ポンコツなわたしにも出来ることがあるらしい

自分がいわゆる「HSP/繊細さん」にあたる、つまり割に神経質で気にしいな性質らしい、と認識したのはここ最近の話です。

一方、人から認められたり評価されたりするような能力が、ありとあらゆる項目で人並みに達していないことには人生の序盤で気付きました。

とかく「みんな一緒」を求められる小学校で6年間過ごす間に、否が応でも自覚せざるを得なかったのです。

鉄棒出来ない
ボール投げられない
登り棒に登れない
跳び箱も跳べない
走るの遅い
泳げない
記憶力が悪い
方向音痴
忘れ物が多い

あまりに「みんな一緒」が出来ない自分と周囲とを引き比べて劣等感を抱きつつ、泣きながら戸惑いながら、わたしは頑張って歳をとりました。

そうして大人になったとき
わたしは気付いたのです。

わたしが当たり前に出来ることが
出来ない人もいるらしい。

そういう、今までとは逆のパターンも
あるらしい、ということに。

例えば

タイミングを見計らって話し掛けるとか
誰かが失敗したのを見て見ぬふりするとか
今来た人に話の流れをそっと説明するとか。

それまでは、変なタイミングで話に割り込まれたり、失敗をこれでもかというほど笑われて恥ずかしい思いをしたり、誰にも気付いてもらえなくて困惑したりする度、そこには悪意があるのだろうと思っていました。

だってわたしだったら話がひと段落したところで話し掛けるし、目立つのが不得意そうな人の失敗には気付かない振りをするし、居心地の悪そうな人が輪に入りやすくなるよう取り計らうのに。

そんな当たり前のことをしてくれないなんて
なんて意地悪なんだろうと。

でも、そういう仕打ち(と思える所業)に
本当に
まったく
悪気がない場合もあるらしいのです。

恐ろしく無頓着だったり
人の痛みに鈍感だったり
些細なことに気付く能力が著しく低い
という人も、どうやらいるらしい。

感覚の相違。

わたしの不快が他者の不快とは限らないこと。
わたしに出来ることが、みんなに出来るとは限らないこと。

幼少期、わたしは「みんな一緒」すなわち基準値をクリアできないことで苦しみました。

わたしに出来ないことは、おばさんになった今も、たくさんあります。
でも当然、わたしにはわたしの特性もあって、それを活かす場面もあります。

そんなことを、わたしは大人になってからやっと、実感することができたのです。

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