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「不快な人」にこそヒントがある、かも
世の中は、不快な人で溢れています。
話し声や笑い声が大き過ぎる人
デリカシーに欠け噂話が過ぎる人
くちゃくちゃ音を立てて物を食べる人
些細なことでイライラしている人
境界線や距離感がバグっている人
なんと不快な、と驚くと同時に、この人は何故このような仕上がりになったのかなと、ときどき考えることがあります。
…
かく言うわたしは過干渉で厳しい母を持った為に、禁止事項の多い子ども時代を過ごしました。
あれをしちゃだめ
これもだめ
口答えをしてはだめ
反抗的な顔をしてはだめ
あそこに行っちゃだめ
何時に帰ってこなきゃだめ
誰々と会ってはだめ
急な外出はだめ
禁忌を破ったら徹底的に追及され
懇々と正座で説教され
ときには平手が飛んできて
わたしが泣いて赦しを乞うまで
完膚なきまでに叩きのめされました。
その経験は、たぶんわたしを「礼儀正しく感じのよいちゃんとした子」たらしめたし、おかげさまで社会に出てから大して怒られず叱られず、楽をさせてもらいました。
(先輩も上司も、母に比べれば手ぬるいから)
外で不快な人と出会う度、
つまり配慮ゼロの質問をされたり
不機嫌丸出しで受け答えされたり
話を遮られたりする度
なぜこの人はわたしにこんな仕打ちをするのだろう、と思っていました。
そんな行動をとったらわたしが嫌な思いをするのは自明であるのに、敢えて行うのは悪意があるからに違いないと。
でも、大人になるにつれて
わたしは気付いたのです。
全部が全部、わざとではないらしいことに。
ただ単に、無邪気で不用意で無頓着なだけ、という場合もあるらしいことに。
この不快な行為について注意を受けたことがない、もしくは多少叱られたとて無視、または軽視して受け流すことを許されてきた背景があるのかもしれないことに。
わたしは実家にいた頃、例えば友だちと遊んでいるときや、部活や、恋人とのデートなど、それがどんなに嬉しくて楽しくて大好きな時間であっても、心の片隅でいつも怯えていました。
帰ったら怒られるかも
いや今、電話が鳴るかも
電話口で怒鳴られ連れ戻されるかも
これが最後になるかも
いつか辞めさせられるかも
だから、自分の行いにいちいち不安を感じずに、のびのびと自由闊達に、堂々と朗らかにルールを破ることのできる人を眩しく感じていました。
いいな、この人は徹底的な追及を受けて叩きのめされる恐怖と隣り合わせていない世界で暮らしているのだろうな、と。
もしかしたらわたしのその羨ましさが、不快な人を、より不快に感じさせていたのかもしれません。
わたしはもう大人で、母はわたしを監視していないし、何も禁じていないのに、わたしは今なお、自分に許可を出すことを躊躇いがちです。
一方、不快な人たちのなんと大らかで自由なことでしょう。
自分が不快だなと思う人の振る舞いは、わたしがわたしの思うままに生きる為に、ヒントとなり得る気がするのです。