褒める、または笑わないというバタフライエフェクト
いただいたお土産が特においしかった場合、どの点が素晴らしかったかを後日ご本人に伝えるようにしています。
塩加減が抜群だった、とか
素材の良さを感じた、とか。
おいしいお土産は2度うれしいですよね。
もらったときは、旅先で自分のことを思い出してくれたんだな、とうれしい。
食べたときにおいしかったら、またうれしい。
その、2度目のうれしさを本人に伝えるという行為は、僭越ながらその方の「選択」を褒めること。
だからこそ積極的に執り行いたいのです。
人の顔や体つきには言及しないけれど、
髪型や服装や成長を褒めるのも同じ理由です。
持って生まれたものではなくて
選択や培われたセンスや頑張りを讃えたい。
わたしもそういうことに気付いてもらったら、うれしいし。
褒められたら自信がついて、次はどんなことをしてみようかしら、とウキウキするものです。
…
あの雑談が異常に長い上司も
不適切な発言が多すぎるあの国会議員も
同じ理屈なのかもな、と思いました。
いつからか、おれの雑談をみんなが熱心に聞いてくれるようになった。
おれ、話面白いのかな。
よし、今度あの話もしてやろう。
この間、ちょっと際どい発言をしたらウケた。
こういうのが今は受けがいいんだな。
よし、次はもっとギリギリを狙おう。
…というような。
言うまでもなく
上司の雑談を興味深そうに聞いているのは
彼に人事評価を握られている部下であり
国会議員の話に笑っているのは
彼からネタを引き出したい記者なのですが。
わたしは、人間ってそんなにいいもんじゃないし、かといってそこまで悪いもんでもないと思っています。
よほど、例えば復讐心でもない限り
往々にして人は、人の嫌がることを積極的にしようとはしません。たぶん。
それでも煙たがられたり炎上してしまう人が後を立たないのは、その旺盛なサービス精神ゆえ、なのではないか。
よかれと思って、の末路なのではないか。
だからわたしはせっせと、いい!と思った人の選択を褒め、全然面白くないしネットに晒したら確実に炎上する話には同調せず、笑わないようにしています。
わたしが褒めたり笑わなかったりすることで、せめて1人にはこれは喜ばれる、これはウケない、ということを出来うる限り正確に伝えたいから。
それが蝶々の羽ばたきのように小さな影響をもたらして、微力ながら少しずつこの世をいいものに変えていけたらいいな、と思うから。
それが、権力も牽引力も腕力もないけれども
昇進も無い故に失うものも無い
一応正社員で一般職のおばちゃんに
出来ることかな、と思うのです。
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