夜中に書いたラブレターを一瞬でばら撒ける時代に
夜中に書いたラブレター、それは罪。
思い詰めすぎて、愛を募らせすぎて、想像を膨らませすぎて、普段の飄々とした自分からは想像できぬほどに暴走した果ての事故。
しかしながらそれをしたためている最中に本人が真実に気付くのはほとんど無理というもので、大抵これは力作だ、これを超える名文はあるまい、とうっとりし自画自賛で満面の笑みを浮かべながら眠りにつき、翌朝改めて目を通してみて初めて、その度を越した突っ走りっぷりに気付いて赤面するという経路を辿ります。
その気障で重くてギョッとする、世に出しても後世に残してもならぬ、とりわけ罷り間違って想い人に届いてしまったりなどしたらついぞ日の当たる道を歩けなくなるような代物は、朝のすっきりとした頭で検分してこそ躊躇なく破り捨てることが出来るのです。
あれは、便箋に書いたお手紙ならではの、一種の自浄作用だったと言えるでしょう。
昨今では、電子メールだのチャットだのDMだのと、1回タップしただけで即ご本人に届いてしまうツールが数多存在する為に、夜中に書いたラブレター案件の事故が絶えず起きているように思います。
わたしは「あの頃はよかった」などというのは思い込みで、完璧な時代など存在しない、美点もある代わりに吐き気を催すような欠点もあったはずだという自論を持っています。
だから一概にお手紙最高、チャット最低とは思わない。
それでも尚、夜中に書いたラブレターだけは手元に実体として在るべきで、やがて自分の責任で打ち棄てて然るべきと思うのです。
誹謗中傷なども、その一種でありましょう。
好きの反対は無関心、とはよく言ったもので、その人が気になって気になって仕方がない、羨ましくて取って代わりたくて堪らないから罵詈雑言を浴びせたくなるものと推察します。
そのエネルギーは、是非とも人を嬉しく楽しく気持ちよくさせる為に使っていただきたいものですが、そうもいかないのが暴走した愛。
法定速度を大きく上回った状態で綴った思いの丈を、あろうことかご本人にそのままぶつけてしまう大事故を起こしてしまいがちなのが人間というもの。
ちなみにわたしは、自動車の普通運転免許を持っていますが、可能な限り公共交通機関を利用して移動するようにしています。
車はわたしのほんのちょっとした不注意や一瞬の気の緩みで人を深く傷付け、最悪死に至らしめる武器にもなり得る。
そのことが、心の底から恐ろしいからです。
言葉も同じです。
夜中に書いたラブレターは、必ず自らの手で葬り去らなければならない。
せめて、朝のすっきりした頭でしっかりと検分し推敲し正書してからご本人に届けるべきだと強く、強く思うのです。