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私が『他人愛』からもらった安心感と自立心。
安心して帰りたいと思える場所
私には、安心して帰りたいと思える場所がいくつかある。
それは、物理的な場所であったり、心の中にある思い出であったり、音楽や詩だったり、映画館だったり、色々だ。
振り返ると、子供の頃は家や学校は、安心よりも危険を感じる場所でしか無かった。
家では父親が、酒を飲みクダを巻いて、何か彼の触れて欲しくないところを触れてしまうと、癇に障るらしく、怒鳴られたり、時には暴力を振るわれた。
10歳以降は、性虐待もあったので、益々彼を怪獣か鬼のように思った。
一方、学校では「汚い」「バイ菌」と言われ続け、ほぼクラス全員から忌み嫌われていたので、私はそこにも安心感を感じて過ごすことは一切無かった。
けれど、学童クラブや近所の友達とは、安心して過ごせた。
喧嘩やトラブルが全く無いとは言えなかったけれど、私が悪くても相手が悪くても、お互い様でも、その度に誰かが適切に注意してくれたし、守ってくれた。
だから、家や学校で苦しくて辛くても、なんとか地域やそれに付随する施設や何かに守られている感覚が、子供なりに得られた。
15歳の時に、母に父親からの性虐待について告白してからは、カウンセリングや機能不全の家庭で育った人たちの通う自助グループ、進学した高校では友人も増えて、安心できる場所や人が増えていた。
20代後半からは、ポエトリーリーディングなどの趣味の友達や場所、バイト仲間とか、手話講座の生徒同士とか、ろう者とも繋がれて、大人になる毎に、安心で安全な居場所がたくさんになった。
人間関係が広くなれば、確かに大変なこともある。人それぞれ仲良くできる関係性や距離感は違うし、自分ではどうすることもできなくなって、遠のいた人たちもいる。
それでも、その人たちと知りあえて、話して、一緒に過ごせた日々はかけがえがない。
名前を忘れている人もいるし、私も忘れられてしまっているかもしれないけど、大切なのは、共有した気持ちと時間だと思う。
その人が、どんな立場で、何に所属していて、いくつで、名前は何で…そんなことよりも、心と心がその瞬間は繋がって、躍るような気持ちになれたこと、意味があると信じられたことが、重要な気がする。
少なくとも私は、名のある人間として、その人の記憶に残るより、誰であったかは忘れたけど、あの人(私)といて、楽しい記憶と気持ちが何故か残っていると思ってもらえたら、なんて幸せだろうかと思う。
義父(夫の父)が生前、認知症で施設にいた時に、私が訪問すると色々な話をきかせてくれ、私が誰であるかもわからなくなっているのに、
「あなたが来ると、パァと気持ちが明るくなるよ」
と、ニコニコしてくれた時、ここで私に名前があって、それを相手に認識してもらえなくても、私の纏っているものを感じ取って好感を持ってもらえることは、なんて幸せなんだろうと実感した。
色々あった、本当に辛くて苦しいこともあったし、とても楽しい思い出や嬉しいことも、両方あった。
人の気持ちを抉るように傷つけてくるのも、その傷を癒して、私が何か間違ったことをすれば、きちんと正しい道に導いて諭してくれるのも、困った時に手を差し伸べてくれて助けてくれたのも、皆、人間だった。
人間の裏も表も、本音も嘘も、建前も健全さも全部見た。
だからこそ、例えば、家と学校とか家と職場だけとかで人間関係が終わるのは、非常に勿体ないと思う。
人間は多面体で複雑さを持っているから、住む世界が狭いと、とても息苦しくなる。
シンプルな方が安心だし、楽だし、それで満足できるというなら、別にそれはそれでアリだと思うし、構わないと思う。
どちらが正しいとか間違っているとか、上とか下はない。
けれど、私は子供時代に、家と学校では窮屈な思いをしてきたから、地域だとか学童クラブという別の世界にとても救われた。
身内がいつも、その人を守って安心を与える存在とは限らない。それは、理想ではあるけれど、現実的にそうはいかないこともある。
最終的に、身内との中で関係性が再構築出来れば良いけれど、中々、現状は難しい。
だからこそ、そういう時に、『他人愛』みたいなものが、その人の安心感を担保してくれたりする。
自立とは、色々な人の愛情や親切を享受しながら、成長すること
でも、勘違いはしてはいけない。安心できるからといって、身内も他人ものしかかるほど甘えるものでは無い。人間関係というのは、最終的には自分の背負える責任は、きちんと自分で負うことが、大前提だ。
ただ、幼い子供や、若い人、それまで狭い世界で生きてた人など、そこは簡単にはいかないから、練習する必要があるし、経験値もまだ低い。
その中で、しっかりと線引きできる我々大人が、見守ってみたり、注意したりすれば良いんだと思う。
そういう目が多い程、良いんだと思う。
その人を信じて、成長を信じて、安心して未来へ向かって生きていけるようにしていくのが、大切なんだと思う。
何回でも、やり直して、再スタートすればいいし、それができる社会になると良いなと思う。
たった1人で、何もかもできる人なんていないし、人間は社会性からは離れられない生き物だから、どうにかして、協力を求めあいながら生きていくしかない。
安心できる場所を探そうとするのは、とても自然な人としての行動だし、危険と感じて苦しむのも、当たり前の反応なのだ。
だから、許容し合える範囲でなら、頼って頼られながら生きていけばいいと思う。
本当の自立とは、孤高の人などではなく、色々な人と上手に渡りあい、お互いを許容できる関係性を持ち、きちんと自分の負うべき責任は取るということではないのかなと、私は思う。