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性虐待からの解放と回復 そして願い
-私は、今がとても幸せだから、今こうして声を上げられる
※ここには、どんな性暴力の内容であったかには、言及しない。(私自身のフラッシュバック症状回避のためもある)何故なら、いかなる内容であったにせよ、それを受けた人間の被害がどれだけのものであったかは、計り知れないからだ。
性暴力の問題は、その問題の性質上、証明も難しく、被害・加害双方の主観であるところも大きい。
けれど、これは、人の心と身体に多大なる影響を与える。重大な問題だと、私は考える。
例の朝ドラで、性暴力・虐待を受けた女性が、その相手であった父親を殺してしまい、弁護を受ける描写があった。
(私が見た日の放送、現段階では、裁判のシーンとかではなく、弁護人が保釈?されている女性を保護?している状態)
彼女の受けた性被害は、とても私とリンクする。
ただ、私はギリギリのところで、線を超えなくて済んでいて、こんな言い方が適切かは分からないが、精神疾患に留まってなんとかなっている。
相手がどんなに酷くても、相手の命を奪ってしまった時点で、裁判という場所に己を晒さなければならない。
そして、動機を語らなければならなくなる。
どれだけのことをされてきたのか…または、そこでどんな気持ちになってしまったかを…
世間にどこまで情報公開されるかはあるとしても、普通の日常生活を送っていられれば、会わないような、よく知らない他人に、包み隠さず事件のことをきかれて、説明させられ、そして判断されてしまうのだ。
どんなに、不安で怖かっただろうか。
それまでだって、死ぬ思いで生きていたのに…。
これ以上に無い、苦痛だ。
本当の悪は、なんなのかを、考えさせられる。
昭和40年代…実際にあった事件を元にしている。
性暴力は、助けて欲しいと、声をあげにくい…更に、事実関係が見えにくい、助けを求めた先でも誤解を受けやすく、加害者側がそれに漬け込む巧妙な仕組みがある。
もし、これを他言すれば、恥をかくのはお前だぞ
と、ばかりに。
ましてや、親と子のパワーバランスは、親の方が優位だ。
事実と現状はどうあれ、精神的には親無しで子は生命維持ができないと思うほど、依存しやすい関係にある。
そして、加害的で支配的な親ほど、それを餌と脅しに使う。
自分の満たされない欲求を、子供で補おうとする。
巧妙に、実に巧みに、洗脳する。
私は、この様な父親が仕掛けた、いくつものトラップを、非力で稚拙な頭で考えあぐねて、傷だらけになりながら、なんとか切り抜けた。
私の母は、苦しみながら、このモデルになった女性の母親のように「真実を見ないふり」はしなかった。
一緒に、闘ってくれた。
だから、私の今がある。
私が中学3年の時、死ぬ思いで覚悟して、母に父の性虐待の事実を手紙で告白した時に、母は泣きながら、
「苦しかったね、辛かったね、ごめんね」
と、私を強く抱きしめてくれた。
薄々は、気がついていたけど、きっと母も葛藤していた。
そして重く受け止めてくれた。
私は、解離性障害になって、多くの記憶が抜けていたけど、この時のことは、あの日から忘れていない。
母を信じて良かったと、心から思った。
父は、母に問い詰められた時に、
「あいつが誘惑してきたんだ」と、
言ってきたそうだ。
ショックだった…
こんな愚かな父親の…男の…娘なのかと思うと…
絶望的な気持ちになった。
「俺は正しい、俺の言うことをきいていれば良いんだ」
と、酒に酔いながら言い続けていた。
やっぱりという、納得して合点がいった気持ちと、今まではなんだったのか?という、愕然とした気持ちが渦巻いていた。
あれから何十年と、私は診断を受け、治療を続けて、今に至るけれども、父は最期まで自分のしでかした事実を受け入れ反省もすることなく、あの世へ行った。
もしかしたら、ふと、狂った自分と向き合い、更生して生きることも考えたかもしれない。
そうしかけていたのかもしれない。
私にはわからないし、もう、関係が無い。
例え、そうだったとしても、私が父から受けた深い深い傷痕は、瘡蓋にはなっても絶対に消えないから。
新しい皮膚を移植しても、きっとキレイには戻らない。
それが、性暴力であり、虐待なのだ。
誰の目にも、自分にさえもわかりにくい、深い傷を負わせるのが、性加害・被害なのだ。
こんな関係、こんな経験、もう誰にもして欲しくは無い。
もう何十年も経っていても、実際の被害は数字に表れていないだけで、きっと減ってはいない様な気がする。
声なき声に、叫びなき叫びに、無言の悲鳴に、誰か気づいてと、泣いて不幸になる人間が、1人でも減って欲しい。
心よりそう願う。
心より。
だから、だからこそ、諦めずに、あなたを探すから、信号を送り続けて欲しい。
もしかしたら、すぐそこには無いかもしれない…時間もかかってしまうかもしれない。
でも、世の中の世界中の誰かは、絶対にあなたを見ていて、その声に耳を傾け、目を凝らし、手を伸ばして、待っている。
親や身近な存在に、絶望的になるかもしれない。
けど
一見なんの繋がりも無い様な人間が、ふと、あなたの差し出した手を握り返してくれるかも知れないんだ。
そういう場所は、絶対にある。
信じて欲しい。あなた自身のことも、人間のことも。
せめて、信じようとするだけでも良いから。
あなたの今いる世界だけが、あなたの居場所じゃない。
あなたの想像しないような所に、あなたの居場所が用意されていることもある。
だから、勇気を持って、その扉を叩いて欲しい。
絶対に見つけて欲しいんだ、安全で安心できるその居場所を。
(2024/9/11 追記)
父が、今生きていて、話せるとしたら、言い訳があるなら正気であるなら、きいてもいいだろう。
許せるか、許せないか、そこまではわからない。
あの人は、普段は私を大切であるとか、好きであるとかは決して言わなかった。
けれども、性暴力の時にだけ「愛している」と言い放つ。私は寒気がした。
愛についての概念を、崩壊させるのに充分だった。私はその時に言葉では無かったけれど、感覚で「誰も愛さないし、誰にも愛されない」と、決意していたように思う。
お父さん、本当に私を愛している、愛していたなら、あなたが私に間違った行為をしたのだから、その手は永遠に離すことが、本当の愛だよ。
あなたから、是非とも離す必要があったんだよ。
もう、それを言うことも永遠にないけれど。
加害者に一番に突きつける刃は、復讐することでも、重罪を課すことでもない。
見返すことでもない。
被害を受けた人間と、しっかりと引き離すことと、その人の幸福な生活を保証することだ。
お父さん、あなたがどう生きようが、あなたの自由。
幸せになってもいい。
でも、絶対に忘れないで、あなたのした卑劣な行為を。
そして、永遠に私と会わないで下さい。
私は、あなたの存在し、生きて幸福になる自由を奪ったりはしないけれど、あなたを許すといえることは、絶対にない。
許さずして、相手を恨み憎み続けることなく、生きる術はいくつだってある。
許さなくていい。認めなくていい。