
「活字慣れ」って結局なんなんだ?
「実は読解がどうしてもできなくて」
「なるほど…。活字慣れしないとだね」
なんていう会話を、高校時代の二者面談でしたことがあった。
あれから数年以上も時が経った今でも思うことがある。
「活字慣れ」って、結局なんなんだ?
読んで字のごとく、活字に慣れること?なんで活字に慣れないといけないの?活字に慣れたらその先どうなるの?
そんなことを高校時代に一度考えたことがあったものの、当時のワタクシはまぁまぁ脳筋で気合いで勉強をこなしてやろうと思っていた自称体育会系だった。
要するに、
「考えたってしょうがない。とりあえず、読みまくろう」
と思って、できる限り時間を見つけて小説を読んでいた。
一応、成績で判断すれば、読解力は上がったし、確かに活字に慣れた感覚は少しだけあった。
だが、脳の片隅にはこんな考えもメモリーされていた
「なんか違う気がする」
読んで字のごとく、活字には慣れている(ような気がする)感覚は確かにあった。でも、読解ができているのかと言われれば、なんか微妙だった。
というか、テスト返却されて結果を見る度に、たまたまヒットした感が否めなかった。
じゃあ、活字慣れって結局なんなんだろうか。
読書を約1年半以上続けるようになった今だからこそ、答えが見えるのではないかと、かつては読書嫌いだったワタクシが改めて考えてみた。
まず、活字とは、活版印刷によって写された文字のことを言う。
本質的な特徴を言えば、基本的には文字しか書かれていない。絵やイメージ、写真などが載っていたとしても、いっ時の補足にすぎない。
つまり、文字しか書かれていないから、世界観も登場人物も状況も何もかも自分の頭でイメージしないといけない。
ということは、
活字慣れというのは、その活字を読んで自分の頭でイメージできるようになっていることを言うのではないか?
そこから、行間を読んで、登場人物の心情や作者が言いたいことを考えていかなければならないのではないか?
なんていうことを考えてみたが、結局、活字慣れってなんなんだろうか?まぁ、本読める人、読解が得意な人からしたら、どうでもいいことか。
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