これは見事なダブルトゥーループだ!
私は先週、入社してから今までで一番忙しい一週間を過ごした。
原因の詳細は省くが、保有しているシステムでいろいろと起こったのだ。
「システムでいろいろと起こる」
そういった会社に勤めている人からすると、耳をお鍋の蓋で塞ぎたくなるような言葉だろう。
文字通り色々と起こってしまい、私はまだ空いている電車に乗って出社し、平日の真ん中にも関わらず酒気を身に纏った人と同じ電車に乗って帰宅するような日々を過ごすこととなった。
幸い私の家は会社から1時間圏内だったため、比較的遅い時間まで働いていても私のことを家まで乗せてくれる電車はあったが、中には埼玉県の後頭部ら辺に住んでいることから、会社周辺の小さな宿泊スペースに滞在することを余儀なくされた人もいた。
その週のある日に、その人が着てきたシャツが裏表逆だったため、そのことを彼に伝えた。
そういう服なんだ、よく間違えられる、と彼は言っていたが、彼の言い分を受け入れるにはそのシャツはあまりにも裏表が逆過ぎた。
疲労のおかげで言い訳のクオリティが下がっているか、本当にそんなシャツが私の知らない世界で蔓延っているかどちらかだと思い、彼が一秒でも早く回復することを願った。
そんな週もある程度落ち着き、私たちの勤務サイクルと彼の言い訳のクオリティも少しずつ元に戻りつつある今、私はふと思いその週の自分を振り返ってみた。
私は部署の中で一番若手ということからか、単純作業や逆に手のかかる煩雑な業務などを任された。状況が状況ということもあり、一つ間違えるとさらに痛手を負ってしまうため、知見のある人が中心となって目の前で噴火寸前の火山のようなシステムを落ち着けるべく、しわを寄せ過ぎた眉間にさらなるしわを寄せながら対策を練っていた。
私はそんな対策本部から細分化されて降ってきた作業を淡々とこなし、その次に降ってくるであろう作業の準備をするといったような立ち回りを演じていた。
何を隠そう、私は常に来るものをそのまま受け入れる待ち人の姿勢でいたのだ。ある意味美しく、それ以上待つことができないような完全なる待ちの姿だった。周りの焦りや不安に私は巻き込まれ、自分らしく泳ぐことができずに言われたルートを言われた通りに泳ぐことしかできなかった。
「仕方がない、そんな状況だったらそう動くことが正解だよ」
「難しい分野だからね、分からなくても当然だから」
有難い、非常に有難い。
私への指示が止まった時、私にできることはないかと森で必死に潮干狩りをしていた私へ宛てた優しい上司たちの慰めの言葉なのかもしれない。
(そんなことを言いながらも、彼らにとっては私の存在が少なからず助けになったそうで、比較的作業は早かったため、本当にいてよかったと後に感謝された。私は単純だ。)
ある程度自分でも動こうとしたものの、一歩でも道を踏み外せばブラジルのカーニバルも止まるほど大事となる緊迫した状況では、私としては彼らの指示を待つしかすることはできなかった。
そんな時、ふと学生の頃の自分を思い出した。
私が学生時代にアルバイトとして働いていたアパレル店は、近隣の店舗と比較しても忙しい店舗だった。繁忙期には人が濁流のように押し寄せ、流れる川のように時間が過ぎて行った。
そこでの私も指示を待っていた。
ここにある服を畳んでくれ、あそこにある箱の中の服を売り場に出してくれ、私は言われるがまま、思考を殺して颯爽と作業をしていた。
その時の私も自分が待ち続けていることに気付き、殺していた思考の救命活動を開始する必要があると身をもって感じていた。
そう、私は学生時代にもう通らないと心に決めたレールを、大きく美しい弧を描いてまた通ってるのだ。そしてこれは良くないことだと自身に問うている。「モノはデータの時代」という文庫本を読んでいるようなものだ。
失敗を繰り返すことも好ましくないが、同じことから同じ反省を見出し、あたかも初めて出会ったような顔で学ぶことの方が私としては滑稽な姿だった。
見事な二度目の反省から私は、自分がしていたことに対して素直に、かつ柔軟に受け入れる姿勢をとることができていなかったのではないかと感じた。
忙しいといったことや余裕がないといったことに託けて、本質的には他力本願であることを押し殺して動いていたのではないか、そんな部分があらゆる場面で垣間見えて、そんな自分の姿を恥じるほどに痛感したと私は思う。
二度通った道はもう通ることはない。通ってはいけないのだ。
そう気づいた私は、様々な店のアプリがダウンロードされたスマートフォンを今日も眺めている。
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