#57577デザイン室②

#57577デザイン室 、第二回目が終了した。

 一回目から一週間たっているが、その間もFacebookのグループ内に一回目の宿題を提出したり、それに対してあららさんや皆さんのコメントをいただいたり、活発なやりとりがあった。あらためてすごい場に参加していると思う。どんどん出されるアイデアと、あららさんのコメントの内容の濃さ。「本気で、真面目に、楽しく遊ぶ」という感じ。中身そのものはもちろんなのだが、講座の進め方にしても、ありそうでなかなかないと思う。

 第二回目の前半は講義。

それ、<短歌/わたし>じゃなくてもよくね?

 これはもう短歌をつくる人なら誰でも必ずぶちあたる問題ではないだろうか。わたし自身、なぜ短歌をつくっているのかうまく説明できない。やっと最近、わたし短歌好きかも、と言えるようになってきたくらいなのだ。さらに、「わたしじゃなくてもよくね?」に関しては、短歌のことだけに留まらず、ほとんど毎日のように思っている。だいたいわたしは基本的に、自分に生きている意味があるのかと常に疑問を感じているような人間なのだ。上手な歌人、素晴らしい短歌は世の中にあふれている。どうみても需要と供給のバランスがとれていない。それなのにわざわざわたしがつくる必要があるのか、と。

 それから、「タルト問題」。言葉全体がお菓子の世界だとしたら、短歌はせいぜいタルトくらいなのだ。チョコレート(エッセイあたり?)やショートケーキ(小説?)みたいにメジャーじゃない。ショートケーキ(小説)が大好きな人にも、自分のつくったタルト(短歌)をおいしく食べてもらうことを頭に置いておかないといけない。もともとタルトが好きな人だったら、もしかして気に入ってもらえるかもしれない。でも、たくさん並んだお菓子の中でタルトを選んでもらうには? さらにお菓子にそれほど興味のない人の目まで引くことも考えるとすれば?

 短歌をビジネスにすることの厳しさについては、枡野さんからもいろいろなケースのお話をうかがった。よほどこだわってお洒落に「見せる」ことを意識しないと、自己満足で終わってしまう恐れがある。たとえばTシャツをつくるとしても、短歌と関係のない服飾業界の中でどう受け取られるか。短歌が入っていることで、本当にカッコいいのかどうか。もちろん、こだわってつくるとそれなりにお金もかかる。

 後半は、発想の転換を促したり自分の持っている枠組みを外すようなことが体感できる二つのゲームをやった。一つ目は、ことわざの逆を表現してみようというもの。たとえば、「逃がした魚は大きい」なら、「逃がした魚は雑魚」とか。確かに、逃がした魚は大きいなんて、そんなことは誰にもわからないし、雑魚と思っていたほうが精神衛生上よさそうだ。

 二つ目は、あららさんの作った「短歌自動生成装置」である「星野しずる」のつくった短歌を、それぞれが二箇所だけ変えて、どれが一番いい短歌になったと思うか投票しようというもの。

 「星野しずる」は持っている語彙を自由に組み合わせて半永久的に短歌を生み出す。一度出てきた短歌にもう一度出会える可能性はほぼない。つい何度もクリックしてしまい、完成度の高さに打ちのめされたりもするのだが、気をとりなおして「推敲」してみよう。

真実のリズムで君の結末に気づく無言のカナリアみたい(星野しずる)

真実のカメラで君の結末に気づく無言のカナリアが飛ぶ(えんどうけいこ)

動かないアスパラガスを見ています 映画のような父を失い(星野しずる)

横たわるアスパラガスを見ています 映画のような父の墓前で(えんどうけいこ)

うーん、やはり今ひとつ良くならない。意味のつながりを考えすぎているような気がする。元の歌の方がいいような。

「星野しずる」を超えられる日は来るのだろうか......。





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