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決めない自分は、人生の味方。

自分は一人しか居ないけど、自分の中には、相反するタイプの自分が居たりする。自分は自分、なんて言うけれど、そんな自分でさえ何人か居るものだ。自分を知るということは、その何人もの自分を知るということだと言える。

決める自分と、決めない自分も、その中に居る。

決めることは大切だ。それはもう広く一般論として言われているので、たくさん目にも耳にもする。今さら新たな話でもないし、決める効果が確実にあることは、私も実感として知っている。だから自分の中には、ちゃん決める自分だって居る。

でも、決めないことがプラスに働く自分もいるのだ。
「決めない」と決めたわけじゃないし、決めた覚えはない。つまり、こちらは無意識の自分なので、これは最近になって自覚したことだ。

なぜか決めないほうが、「する」ことが前提の頭に、自然になれている自分が居る。行動だ。行動が続く自分が、そこに居る。

それでも飽きてくるのかクールダウンする時期もおとずれるのだが、必ずいつの間にか再開しているし、或いは展開形となって始めていることもある。

長い間この部分の、飽きてくる自分のとらえ方を、大きく間違えていた。

それは、私にとってはただの周期だったんだ。
朝が来て、お昼を過ぎて、夜が来るようなもの。寝る時間が来ただけだったんだ。自分の世界から、無くしてしまったのではない。

だから、また朝はやって来る。起きたいなんて願望を持つこともなく、起きるのはひたすら自然な行為。つまり、再開の時。生きてる限り続くということだ。

起きて活動すれば、また寝る時間もやって来る。それだけのことだったんだ。

決めていないのだから、周期の規則性もない。眠い目をこすりながら、一睡もせずにひたすら続けるような感覚の時期もあっただろう。お昼寝したいような時期もあっただろうし、寝ぼけまなこの朝みたいな時期もあったかもしれない。

そんなことに気が付かなくて、自分のことを続かない人間だと思っていたけど、大きな勘違いだ。子供の頃から、好きなことは何も止めていないじゃないか。むしろ「飽きもせずよくやってるな」だ。あぁ、そういえば、周りからはそう言われていたっけ。

どうして今まで、そんな自分に気が付けなかったんだろう。何故そこまで、自分を責めなければいけなかったんだろう。

まぁ、その部分はなんとなく分かる。何かの拍子に人と比べてしまい、自分の無能さがイヤになっていたんだ。本当は飽きたことなんて一度もなくて、飽きたふりをしては逃げていたのかもしれない。きっとそういう自分がイヤで、責め立てていたんだ。

でもやっぱり好きだから、また好きなように始めるという、ややこしさよ。

こんなに好きなことがあるのに、これだけ続けてきたことがあるのに、既にあるものに気が付かず、責め立てて、無い無いと探し回っていたなんてバカげてる。


何なら決め、何なら決めないのか。それは決められない。そんなの本能的的なことだから。

ただハッキリわかったのは、決めることだけが強さではないということだ。

「決める」ということも考えたことが無いくらいの自然な何かが、自分を創っている。それが今ようやく、腑に落ちた。

「決めない」と決めるのではない。「決めない」は無意識だ。無意識の強さ。あれ、それって俗に言う強みってやつじゃないか。なんだ、そういうことか。

年末あたりから刺繍の図案描きが転んでいって、このところまた、絵をたくさん描いている。ほぼ毎日に近い。刺繍も刺し子もたまにしてるけど、今は絵の比率が高いので、きっと自分にとって絵のターンだ。まぁ、刺繍や刺し子も、私の中では絵と同じポジションにいるけれど。

お天気のいい日、こんな窓辺で過ごしたいなぁ!と思い、インテリア雑誌の写真を見ながらスケッチ。

いつも、いつの間にかまた絵を描いている。よし描こう!と強く思ったり、描きたい描きたいとザワザワするのとも違って、ポッと自然に描く日がやってきて、しばらく没頭の時期が続く。

さっき、決めるまでもなく無意識にしてることを、人は強みと呼ぶのかと書いたけど、正確には「自分の強い味方」だ。

ただ好きなだけだけど、子供の頃からずっと続いていることは、心を満たしてくれて、支えてくれる、強い味方だ。

いや、もしかしたら決めない自分が、人生の強い味方なのかもしれない。






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