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とあるVtuberの反論


日課のエゴサ中、『去勢されたオタク、飛日リョウ』という動画を見つけたとき、正直なところ笑ってしまった。

動画は予想通り素人感丸出しの内容で、喋りはたどたどしく、構成も雑。エンタメとしては聴くに堪えない代物だが、それでもタイトルが妙に引っかかった。 

曰く、飛日リョウはリスナーたちの自意識やアイデンティティの摩擦を言語化し、共感したり、ユーモアを持って批判したりして癒やすだけであり、少しも「危険」ではなく、「前衛」に見せかけた「安全な前衛」、「アングラ」に見せかけた「マス」だと。これが彼の言いたいことらしい。 

動画を進めるうちに、彼は昨今のアーティスト全般についても不満を述べ始めた。「安全な前衛」という批判は、マイヘア(My Hair is Bad)やKing Gnuといった現代の人気アーティストにも向けられる。たとえば、マイヘアのライブでの発言――「戦争なんてない!遊ぼう!!」――は、無邪気を装いつつ現実の痛みや暴力から目を逸らす凡庸さを現しているという。  

さらに、King Gnuの常田が「millennium parade」のMV制作を中止した件にも触れていた。戦争描写を含むフィクション作品の公開をロシア・ウクライナ戦争の勃発という「恐るべき世界情勢」を理由に取りやめたことが、「ヘタレ」だと切り捨てられる。  

どうやら、この「ヘタレさ」や「凡庸さ」のことを「去勢」と呼んでいるらしい。

『すてごま』の歌詞を引き合いに出して、「ブルーハーツを見習え」と彼は言う。  

おろしたての戦車でブッ飛ばしてみたい  
おろしたての戦車でブッ放してみたい  
何か理由がなければ 正義の味方にゃなれない  
誰かの敵討ちをして カッコ良くやりたいから  
君 ちょっと行ってくれないか  
すてごまになってくれないか
いざこざにまきこまれて 
泣いてくれないか

THE BLUE HEARTS「すてごま」

この曲が、1992年に可決された「PKO協力法」に対する抗議の意味を持つことは知っている。「恐るべき世界情勢」においてこそ、アーティストは皮肉とユーモアを持って、凡庸な逃避や配慮を超えた作品を紡ぐべきだ――そんな主張には、一理ある。  

だが、途中で動画を閉じた。喋りのテンポの悪さや話の脱線に付き合うのが億劫になったからだ。

俺がやっているのは、確かに「安全」で「快適」な場所から、リスナーたちの自意識を癒やす行為だ。リスクを取っているか?挑発的で危険な発言をしているか?答えは「否」だろう。

だが、それを言えばコイツこそVtuberやアーティストにマジレスするばかりでユーモアを欠いているし、だから登録者数も伸び悩んでいるのだろう。俺の登録者数は39万でコイツは600だ。

フリーザとラディッツくらい違う。

ヘイトコントロールもなってない。

これは、ヘイトを生むような言動をしたら、リカバリーできるような言動を心がけて、自身への評価を上げるよう努める、という配信者の基礎だが、コイツは全然ダメだ。

おそらくそのような発想もなく、言いたいことを言いっ放しである。これでは伸びない。

それに、俺がやりたいのは、リスナーが日々抱える些細な苛立ちや不安を軽くして、笑ってもらうこと。それを「安全な前衛」だと言われたら、反論する気も失せる。

画面越しに誰かの心に届くような言葉を紡ぐのは、簡単なことじゃない。たとえ「安全」と切り捨てられようと、俺には俺のやり方がある。ブルーハーツにはなれない。だからといって俺が間違っているとは思わない。

「安全な前衛」で結構。数字が取れなければコンテンツは生き残れない。

だが、数字だけじゃない。

「偽善者」と言われようとも、俺が画面の向こうの誰かにとって意味のある存在でありたいという気持ちに嘘はない。かつての俺のように、鬱屈として出口を見失っている誰かの支えや導きになること。それが俺の正義だ。少なくとも、俺はそう信じている。

まあ、数字じゃ女性Vtuberに敵いっこないし、この正義が自我の支えになっていることも否めないが。

意味(正義)を欠いて数字だけ追っても病むし、意味にこだわり過ぎても病むか胡散臭くなる。

そんな奴らをVになる前もなってからもたくさん見てきた。

コイツは胡散臭いし、素人臭すぎる。

一通り反論を並べたところで、ふと時計を見る。今日もスケジュールは詰まっている。

「まあ、こんな動画に振り回されてる場合じゃないか」

俺はPCのカレンダーを開き、今日の収録と配信の予定を確認する。タスクを追いながら、頭の片隅でまだ「去勢」という言葉が燻ぶっていた。



おまけ

この小説は、以下の動画に対する反論を自戒を込めつつ架空のVtuberにさせてみたものです。


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