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映画「フィリップ」と世界の現状
先日、ふと映画を観ようと、UPLINK吉祥寺で「フィリップ」を観てきた。
おそらく私史上初のポーランド映画である。
ナチスによって恋人と家族を殺された男"フィリップ"は、自身をフランス人と偽りながらナチス将校の妻達を誘惑することで、復讐を果たそうとしていた。しかしある時、知的なドイツ人の"リザ"と出会い、二人は愛し合うようになる…
というあらすじなのだが、この映画、まあなかなかの重さだった。
そもそもなぜこの映画を観ようと思ったのか。
ジャーナリズムを学ぶ学生の端くれとして、戦争に関わる映画を見逃せなかったというのは、間違いなく理由の一つだ。
しかしながら、実は私には、ナチスに関わる映画にとあるトラウマがある。いや、映画館に対するトラウマと言っても良いかもしれない。
それが2015年に公開された「杉原千畝」だ。
杉原千畝自体は割と知っている人が多いだろう。
第二次世界大戦下のリトアニアで、日本政府からの命令に背いて、ユダヤ人に日本の通過ビザを発給した外交官だ。
2015年、当時私は12歳。
確か新聞広告を見て、母と二人、「杉原千畝」を鑑賞した。
それがナチスと映画館、そして戦争に対する私の恐怖の始まりだった。
作品自体は別に悪くない。所々フィクションの部分もあれど、杉原千畝という人物、あるいはナチスによるホロコーストの歴史を知る入口としては観やすく、子供の私にも話がちゃんと理解できた。
だがしかし問題はそこではない。
元々私は打ち上げ花火を怖いと感じるような子供だった。
つまり銃声など論外なのである。
映画「杉原千畝」の中に、とあるシーンがある。
ナチスの兵士たちが、ユダヤ人達を狭い倉庫のような場所に追い詰めるのだ。そして、兵士たちはユダヤ人に対して「立て」と「伏せろ」を繰り返す。「立て」と言われたら即座に立ち、「伏せろ」と言われたら即座に伏せねばならない。ナチスの兵士たちは「伏せろ」と言うたびに銃を乱射するのだ。少しでも伏せるのが遅れたユダヤ人は、次々と銃弾に倒れていく。室内は瞬く間に血の海と死体だらけになっていく。
私は12歳のその時以来、「杉原千畝」を観ていないため、記憶が曖昧な部分もあるが、おそらくこんな感じだった。
文章にすると淡々としたように思えるかもしれないが(私の語彙力不足もある)、当時12歳の私にとって、このシーンは衝撃的だった。
おまけに映画館での鑑賞ということも手伝って物凄い銃声であり、恐怖のあまり泣き出しそうになった。
小学生ながら私は、これが戦争か、と思った。
それ以来、私は映画館で銃声のシーンがあると必ず耳を塞いでしまう。
銃声そのものが怖いというのもそうだが、どうしても脳裏に、あのナチスの残虐な銃殺シーンが張り付いて消えないのだ。
せめてPG12程度にしておいてほしかった。
そんなこんなで、私にとってナチス関連の映画は因縁なのだ。
そんな私が久々に、"ナチス"という言葉をあらすじに見つけ、何を思ったか「フィリップ」を観ようと思ったのである。まさしく怖いもの見たさだ。
「フィリップ」の細かな内容をここでネタバレする気はない。UPLINKでの公開はまもなく終了するが、もし今後どこかで上映や配信でもされていたら、是非観てほしい。
ラストシーンでフィリップは、越えてはいけない一線を越える。
薄々予想はしていたのだが、なんとも後味の悪い終わり方だった。
重大なネタバレになりかねないが、私はこのラストシーンを観て、昨今のパレスチナとイスラエルの戦争を思い浮かべずにはいられなかった。
悪には善で返さねばならない。だがしかし、現実はそうもいかない。憎しみが憎しみを呼び、悪に悪で返そうとする。負の循環は止まらない。
いや、当事者たちにとっては、それが紛いなき正義なのかもしれない。
「フィリップ」は、第二次世界大戦下の物語である。しかし、そこで起こっていたことは間違いなく、今日の世界の"現状そのもの"だ。
後味が悪い、では言い表せない、なんとも心に重たい空気を残す作品だった。