知ることから始めよう、こころの病気情報
昨日は一日ひとしきり落ち込んで
ゴロゴロした。
久しぶりの鬱々とした暗い気持ち。
何に落ち込んだかと見つめると
私は、適応障害、不安障害という軽めな精神的な病いから躁うつ病というちゃんとした病名がついたこと。
障害者雇用という言葉にショックを受けたことにショックだったこと
幼い頃から、母がボランティアで
手話や障害者の方々のヘルプをしていて、それについていったりして
彼らとの交流で、
おんなし人間
ただ自分の気持ちを表現する
表現方法がわたしと違うだけなんだなぁと。むしろはっきり口にする
嫌なことは嫌
すきなものは好き
楽しくて笑う
悲しくて泣く
私が出会ってきた人たちは、そういう人たちだった
声が大きくてびっくりしたけど
全身で表現している様はとても安心できて。
父は、変な団体に関わるな、宗教とか何かいわくつきだと困ると言って苦言を呈していたから、母はあまり表立ってしなくなって、町内会の集会とか、学校行事の一環として
あるときだけやるようになっていた気がする。
そうして大人になって、
なんの因果か私は仕事で手話を、使う機会を得て、障害者という枠組みの方々と手話でコミュニケーションしたりするようになった。
控えめに言ってとても楽しかった。
無理難題、罵詈雑言をぶつけられるお客様のいる中で
彼らとのコミュニケーションは
思いやりや温かい言葉、ウィットに富んだ会話。心から自然と笑みが溢れることばかりだった。
気難しい方もいらっしゃったけど。
そうして、健常者ってなんだろう
障害者ってなんだろう
そんなことを、いつも考えてた。
相手の気持ちも考えず
「お客様」という立場で罵詈雑言を浴びせる方は、健常といえるのか
楽しそうに手話で冗談を言う方が障害?
身体の面だけでの区別
では、精神の区別は?
見知らぬ人にいきなり罵詈雑言を浴びせる人間は障害を抱えているのでは。
そう思っていたら世界中が敵になってしまって外に出られなくなり仕事も辞めて現在に至る感じだ。
お山と空気と川と何もかも美しいところへ引越して就労支援施設へお世話になり、色んなチャレンジをするうちに、お薬も頓服もなしで出かけられるようになり、お買い物も楽しく、バスも電車も地下鉄ものれるようになり、そうして、お仕事も短時間だけどできるかも!的なところまできた。
あぁ、わたし、治ったんだ!
そう思ってしまっていた。
躁うつ病は、躁のとき、とても気分が良いし、万能感多幸感があるから
そのとき、とても良いことを言うしやってしまう。
鬱のターンがくると、その全てを否定したくなる
思い返せばずっとそうだった。
友人と飲んでる時は色んな約束したりして、でもいざやろうとするとめんどうで会うことすら面倒で
どれだけの人たちと別れてきたか
縁を切り切られしてきたか
あぁ、そうか。
躁うつ病だったか。わたし。
うすうす気づいてはいたけれど
紙面で活字となって見ると
その衝撃にギョッとした。
病名告知ってだから慎重になされるのね。
主治医から説明されながらも
朦朧としてしまった笑笑
何がショックって
ショックを受けてる自分に、ショックだったんだよな。。。
そーゆー偏見ないと思ってたから
みんなおんなしいきものじゃん
いきとしいけるものみんなみんな大事だよねって思ってたから
自分の中の偏見はキツい
偏見のある人を糾弾してきたから
父が肌の色人種、障害のあることなどの偏見を平気で、口にする人だったから
ペーパードライバーのわたしを
カ○ワ
と言ったりする人だから
わたしはそんな父を恥ずかしく思っていたから。
私の中にもあったのだ。
精神的病いに対して恐怖を覚えていたのだ。
それが私だ
ジュッパヒトカラゲ
「普通」の枠組みで
みんな一緒ができなかったわたし
お願いだから普通にして!!
母の悲鳴ににた叫び声
どれだけ懇願されてもわからなかった。
どんどん大きくなる背中にちょこんとランドセルを背負わせて
私はどんどん猫背になり俯いて
メガネをかけたくなくて目を細め
それでも見えなくてクラスメイトに反応できず世界は暗黒だった。
ただ一人、小学校3年、4年の時の
担任の先生が
私の文章をとてもとても褒めてくれて。
読書感想文とか、日記とか
嬉しくていっぱい書いた。
小説とかもいっぱい書いて友人達が楽しみにしてくれるのも嬉しくてそうやって私の中の思いが思いっきり昇華されていたことを思い出した。
泣けてきた
先生に会いたいな。
先生、わたし、障害者なんだって。
躁うつ病ってびょうきなんだって。
ハローワークでね、障害者雇用してもらうの、障害者窓口でね相談に乗ってもらえるの。
今ね、わたし、子ども産んだのに別れちゃって、子どもは元夫に親権わたしたの。母親なのにひどいよね?
わたし、とても育てる自信なかったの。一緒に死にたいって思ってしまったの。でも、息子を道連れなんてしたくない離れなくちゃって思ったの。それでね、、いろんな仕事したんだよ。今の夫さんに出会ってね、いっぱい助けてもらっていっぱい愛してもらってわたしもすごい愛してるの。大事にしてもらえて今は毎日がとてもとても幸せでね
就労支援施設で絵を教わってるんだよ!学校でほら、クラスメイトの似顔絵かいたとき、サエちゃん泣かしちゃったじゃん?覚えてる?
私はこんな顔じゃないって笑笑
悪いことしちゃったなー
今はね、絵を描くの好き。へたっぴだけど、大好き!それでね、お仕事も紹介してもらって、短時間だけど、お掃除のお仕事。そうそう美化委員とかもしてたよね!草花にみずやったり、そうじしたり、、、
廊下をヒトマスずつはいて拭いてたの、そうモモのベッポじいさんね!
それから、お掃除が好きになってね
今また、障害者雇用っていうのでチャンスがもらえたんだよ
支援員さんみんな優しくて親切でね。先生みたいに励ましてくれるんだ。あ、あとね、先生、
私今、NOTEっていう媒体で自分の気持ちを書いてるの。
先生が私の文章を褒めてくれたから
卒業した後も、日記とか、続けて書いててね。あ!小説はね、文化センターの文化祭で賞もらったりしたんだよ!短歌も!
ふふふ先生のお陰だよ。
そうやって書いて出しているうちに
色んなことができるようになったんだ。
親兄弟や、ほかの人たちと交流するのは、難しいんだけど。
メンタルクリニックのお医者さんが、それでいいって。
せっかく元気になってきたんだから、今無理したら元の木阿弥
一番大事にすべきことはあなたが元気でいられることを最優先すること
自分の気持ちに正直にやりたいことをやり、やりたくないことをやらない。
やりたくないことをやらない。
これが一番大事なことだよ。
やりたいことをやるよりも大事かもって。
心も身体もしっかり休めること。
休むことは最優先事項だよって言ってもらえたの。
嬉しかったなぁ。
先生、私の話ばっかり、ごめんね?
先生は元気?
思い浮かぶのは卒業後短大生の時に会いに行ったのが最後だったかな
ちょっとくもった先生の優しい笑顔
あなたにもっとしてあげられることがあったと思う。
そうやってつぶやいた先生の顔が忘れられない。
当時、双子が産まれて家はてんやわんやだった。
学校の宿題とかで
確か誕生日の子の学級通信を、出してくれてて、親に名前の由来を書いてきてもらってねと言われて
私は自分で書いていったんだよな
それを見て、先生は、母に連絡してくれて、慌てて母が書き直すということがあった。
母がなんで言わなかったのと怒ってたけど、なんか、嬉しかった。
先生は、事あるごとに、私のお家には双子の赤ちゃんが産まれてお母さんは大変なのですって。
でほかのクラスメイトも小さな弟や妹がいて、かまってもらえず
自立を余儀なくされた子たちにスポットライトがあてられて、それぞれみんなの思いの作文を読んで、
みんなそれぞれお姉ちゃんでお兄ちゃんなんだなーってふんわり心が温かくなった。
病気の兄弟がいる子、ニュースで事件を見て眠れなくなった子、兄弟喧嘩した子、お母さんがいない、お父さんがいない子、いろんな子がいっぱい溢れていた。
それを見せてくれた。
文章が好きで、小説家とかになって先生の前に現れて感謝の気持ちを伝える♡なんてカッコいいことはできなかったけど笑笑
先生のお陰で楽しく生きてるよ!と言えた
あの時のホッとした顔も忘れない
松井優征先生の暗殺教室を見た影響か、大好きな先生が久しぶりに蘇ってきた。
先生なんて人種はほとんどあんまり好きでは無いのだけど、
小学校、中学校、高校、短大と一人ずつ大好きな先生がいる。
もう会うことはきっとないけど
私の中にほんわりいつでもいる
いつでも私の味方をしてくれる
あ、初めて思い出が私の味方してくれてる気がする
私の妄想の中で、先生たちが笑って消えていく。
社会と関わるのに一工夫いるひとたち
それがしょうがい
躁うつ病 双極性障害(双極症)
うわぁまさに!
そうやってこさえた借金、、
上司に怒鳴りつけてクビになったり。。。
20代は波乱の時だった
無茶苦茶だった
あの頃からずっとそうだったんだ。
躁うつの間隔は数ヶ月から数年にも及ぶから、私は躁の間隔が長いのかも。その間仕事ができてたんだ!
本人が自分の病気を知り、それを受け入れ、自ら病気をコントロールすることを援助する心理教育と言われるものです。
いま、これしてもらってるんだなぁ。
有り難いです。
私にとって、この世界は理不尽なことだらけ生きにくいところだった
でも、それを嘆いて恨んでもなんにもならなかった。
そうしてひとつひとつ
目の前のできることを増やしていったらまず息がしやすくなった
力がぬけた
そんなに頑張らなくていい考えすぎなくていい
頼れる人や機関を知ったから
わたしは、わたしのままでそのままで発揮できる能力を、心地よく発揮できるようにサポートしてくれる
わたしはただわたしのまま生きているだけでいいんだと言われた気がして嬉しかった。
今はここです。
今のわたしが今までで一番好きです
みんなみんなありがとう
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?