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【エッセイ】決まりごと

「また明日ね」。
寝る前にそう言うことが、我が家の、というより、私の決まり事だ。
 初めてこの儀式を行ったのは小学生の時。当時、好きだった『楽しいムーミン一家』というアニメで、いつも家族思いのムーミンママが家出するストーリーに衝撃を受けた。どうして家出するような展開になったのかは覚えていないし、結局は帰ってくるのだが、そんなことは関係ない。ただ、優しいママでも家族を置いて出ていくことがあるという事実が恐怖だった。

 そこで考えたのが「また明日ね」という呪文だ。これを言っておけば、たとえ家族の誰かが家出をしたくなっても思い留まってくれるはず。即効性はあるが、空想的思考回路が生み出したこの儀式は、大人になるにつれ適当になっていき、そして自然消滅した。

 それが復活したのは、7年前の冬。年が明け、病に臥せていた父に「今年もよろしくね」と言ったところ、伝わらなかった。父に意識がなかったわけではなく、「あ?なんだって?」と返されたし、翌日も普通に会話した。それなのに、その次の日、父は亡くなった。あの時、しつこくしてでも、父から「今年もよろしく」という言葉を聞き出していれば未来は違ったかも知れない。そう思った途端、「また明日ね」が呪文色を増して戻ってきた。

 変なジンクスに囚われすぎる前にこういう考え方もある。「約束は破られるためにある」というものだ。「これ、約束ね」というセリフが映画や小説の中盤に出てきたら要注意、約束は果たされないまま物語は終わりを迎え、「約束したじゃない!」という主人公の悲痛な叫びが観客の涙を誘う。約束は物語の伏線に他ならない。

 さらに、この伏線が張られるのは何らかの障害を持った美女であることが多い。障害を持ちながら明るく前向きに生きる美女に、これまた美形が恋をする。夢を語り合い、将来を約束する2人。結ばれた直後、美女は死んでしまう。生死に関わる病気でなくても、死んでしまう。

 さて、こうした伏線というのはもちろん、書き手がいるから張れる。物語の主人公たちにとって書き手は神である。もし、破られるための約束が伏線として実在するなら、そこには神がいるはずだ。

 私は、障害を持っている。どんな障害かを言うと大抵の人に「大変ねえ」と言われ、見知らぬ人から応援される。だが、私は美女ではないし、内気で毎日を淡々と過ごしている。殿方との出会いもない。障害を持つ私より先に父親が死んでしまった。どうやら私の神は、安直なお約束は好きではないらしい。だから、私は安心して約束ができるし、先にあるものを楽しみに生きていけるのだ。  

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