【記者日記】細川一·水俣病を見つけた医師
かわすみかずみ
水俣病を最初に発見した医師、細川一について書かれた書籍は少ない。細川自体がほとんど水俣病について語っていないからだ。水俣病の原因を作った新日本窒素水俣工場の附属病院の院長でありながら、水俣病の告発をしようとした細川は、会社から公表を止められ病院を去った。細川の医師としての生き方とはどのようなものだったのか?数少ない資料を元に考察する。
細川一は1901年、愛媛県に生まれた。東京帝国大学卒業後、日本窒素肥料株式会社に入社。朝鮮咸鏡北道(現在の朝鮮民主主義人民共和国)にある朝鮮窒素阿吾地工場の附属病院院長に就任した。1941年には日本窒素水俣工場の附属病院院長となり、その後ビルマ戦線に軍医として同行。1947年、復員し水俣で復職した。
1956年5月、附属病院に原因不明の病気で運び込まれる。周辺の住民宅への聞き取りから、何かの原因物質に汚染された魚を食べたことから発症したのではないかと考えた細川は、水俣工場の廃液を猫に与える実験を始める。3年後、猫400号が患者と同じ症状を起こしたことから窒素の廃液が原因とわかった細川は、会社にその旨報告する。
しかし、会社側は公表しないようにと細川に釘を差した。細川はチッソを辞め、愛媛に帰った。各地で起こりつつあった公害問題により、水俣では住民訴訟が提訴され、チッソが「工場の廃液が原因と知っていたかどうか」が争点となった。
肺がんのため入院していた細川の元に、被害者側の弁護団が臨床尋問に訪れる。細川は、会社側が知っていたことを証言。その後細川は息を引き取った。69歳だった。
細川の証言の3年後、熊本では第一次水俣訴訟が勝訴。細川の証言の信憑性が評価された判決だった。
細川一の評価
細川の生涯を紹介した「その時歴史が動いた わが会社に非あり」(NHK)では、細川の人物像を以下のように伝える。「窒素以外の患者も分け隔てなく診た」「院長室を作る暇があったら、診察室や病室をひとつでも増やしてほしい」(細川の発言)。
同番組では、 細川が医師として誠実で優しい人だったという評価がなされている。だが、細川の経歴をみると、疑問も湧く。細川が東大を卒業後に就任した朝鮮窒素阿吾地炭鉱は、朝鮮最大の褐炭(質の悪い炭)の産出場所だった。阿吾地では、この褐炭から人造石油を作るため工場が作られた。
朝鮮民主主義人民共和国に渡航し、現地の写真を撮り続ける伊藤孝司さんが現代ビジネスに書いた記事によれば、当時の朝鮮の若者は、無理やり連れてこられ、日本、阿吾地、興南に振り分けられて強制労働させられたという。朝鮮窒素は日本政府から、軍事事業として多くの特別特許を取り、国策として朝鮮侵出した企業だった。
また、当時の東京帝大と軍事産業がいかに結びついていたかは、少し資料を紐解けば分かるだろう。細川が阿吾地で見たものは何だったか?細川が阿吾地でどんなことをしてきたのか?それらを知る資料は、私には探せなかった。だが、NHKは細川のその経歴について、あるいはチッソの戦時中の動きについて触れていない。
チッソとは何だったかのか
細川が水俣病の原因は工場の廃液だと言えなかった理由をNHKは、「工場で働く人々が職を失う恐れがあるから」だったとしている。
同番組は、1950年当時、水俣では、チッソで働く社員や関連企業に勤める人々を合わせると、水俣の人口の1/10になったという。また、当時のチッソは水俣の税収の半分以上を納めていたと伝えた。11月に行われた水俣展京都プレイベント「失われた声に出会って」の中で、水俣病支援センター相思社の永野三智さんは以下のように語る。「水俣の人々の多くは移住者でした。天草はとても貧しい地域でした。天草から水俣に移住した第一陣の人々は、『いを(魚)湧く海』を求めて来たと言われています。第2陣の移住者は、窒素に就職すれば安定した暮らしができると考えた人々でした」。チッソは今も、日本の主要なビニール製品などを生産する大企業だ。だが、暮らしと引き換えに失ったものは大きい。後戻りできない私たちの暮らしの中で、どうやって自然と向き合うのかを、チッソを通じて考えていく必要がある。