消費社会下における革命の不可能性ージジェク著 イデオロギーの崇高な対象を読んでの少しばかりの考察ー

下部構造は生産関係つまり賃労働です、そしてその賃労働と資本主義社会の上部構造つまり法学的幻想つまり所有なわかけです。となると下部構造/上部構造はという唯物史観の基本的分類と関係は所持されています。そして当然、生産関係=賃労働によって資本主義社会は規定されると。これが経済的形態規定のことかな~思います。となると上部構造は賃労働という下部構造=生産関係=経済形態(エコノミックカテゴリー)によって規定されていると。そして資本主義社会は歴史的な産物である。つまり下部構造により歴史的な産物が自動で生産されるという論理です。なぜ自動的かというと下部構造はあくまでも意識の側面を完全に捨像しているからです。フロイトのいう無意識です。
つまり、法学的な幻想=上部構造は歴史の規定要素なり得ないので古典的唯物史観の視点は所有基礎論批判に内包されていると言うわけです。そして古典的唯物史観は座して待てば自動的に革命は起こるというベルシュタイン主義であり革命主体が現れないと。そのため『イデオロギーの崇高な対象』で出されてる例として。ベルシュタインとローザ・ルクセンブルクの会話つまりベルシュタインは革命は時期尚早なのではないのかという強迫神経症(先延ばしにするくせ)的な心配にたいして革命は本質的に時期尚早であると失敗により革命家は訓練され権力を簒奪するというヒステリー(すぐ行動する)的回答をしました。面白いのが強迫神経症は男の構造でヒステリーは女の構造に起きやすい神経症ということです。なのでロシア革命も早すぎた権力簒奪であり革命は永続革命(トロツキーの概念)であるというわけです。そしてその革命主体は欠如の主体であると言うのがジジェクの主張であると解釈しております。なぜなら欠如の主体は対象aつまり欲望の原因(対象)があるため欲望があるかぎり革命の火は消えないというわけです。ただしそれはコジェーヴのいう欲望への欲望つまり承認への欲望。欲望それ自体は自然物ではないため無であると。しかし消費社会としての資本主義社会はその承認への欲望を否定性ではなく肯定性に変えたと。そのために消費社会下に置いては革命は起きないそして消費社会とはコミュニケーション的な商品を消費しそれが必要再生産費に計上される社会です。
言語と商品の世界はシニフィエ(対象、商品)/シニフィアン(記号、価格)となり一致しているというわけであり。そしてマルクスの資本論の『人は鏡をもって生まれてくるわけでも、我は我であるというフィヒテ流の哲学者として生まれてるく分けでもないから、人間はまず他の人間の中に自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、初めて人間としての自分自身に関係するのである。しかしそれと共に、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間とという種族の現象形態として認められるのである。』という資本論の有名な注釈はラカンの鏡像段階を先取りしていますつまり価値鏡によって社会的関係によって価値の関係によって価値は決定されるという価値形態論と人間の無意識は言語的ネットワーク(専門的な用語を使えばランガージュ)によって決まる。そして人間は関係によって還元される(この鏡像段階がラカンは構造主義者と勘違いされる由縁です)かのように見えると。まだディーツ版67ページなので、まだ相対的価値形態なので貨幣形態ではありません。この貨幣こそがラカンのいう対象a=欲望の原因(対象)なのだとおもいます。そして貨幣とは純粋な虚無的ゴミである(金貨でも兌換貨幣でも不換貨幣でも構わない)によってまさにそれゆえにすべての価格を代表できると。なので人間は鏡像関係によって還元されない(つまり純粋な虚無によって欠如の主体によってすべての欲望を代表する)のでいわば関係のなかに虚無のしこりが残るので、ラカンは構造主義者ではないのです。
そして対象aはイデオロギー(無意識の体系)の崇高(タナトスつまり快楽をこえた享楽(死=不快の反復)そして剰余享楽とは剰余価値であり、その剰余が消えると全て消える本質的には過剰(エクセ)であると)な対象(つまり対象a。虚無的なしこり)。であると。イデオロギーの崇高な対象=対象aはイデオロギー的な綻びをキルティングするというわけです。そして資本主義社会は矛盾をエネルギーに発展するので(ドゥルーズのいう脱コード社会を簡単にいうとこう言うことです)常にイデオロギー的な綻びが生じるという訳です。なので対象aは常に必要であり。それは物神崇拝(あたかも供物のように)として必要なのだと。
注意として無意識の体系とは人の心的宇宙ではなく行為の総体です。つまり彼は意識の体系では貨幣をゴミであるとイデオロギー的な色眼鏡をはずしているがまさに行為(無意識)の体系では貨幣を崇拝している訳です。
無意識とは行為であるとつまりフロイトは失錯行為から無意識を見つけ出したように無意識とは意識と解離した行為のことです。

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