タケノコ・キノコ

ただの生活保護者

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最近の記事

唯物論とはなにか?

 唯物論とは経験を超越したところに物があるとされる論。すなわちわれわれは観念しか知覚できず、物自体は超越しているという思想である。  物自体とは何か?それは知覚できない『何か』である。  経験とは何か?それは物自体から影響され観念が生まれることである。  超越とは何か?それさ経験を越えていることである。  そして、観念論とは物自体に人格的な神や絶対精神を措定することであるかあるいは観念論が観念論を自発的に産み出すことである。

    • ヨーロッパを揺るがした、二つ刑死

       ヨーロッパの精神を規定する2つの刑死がある。  一つはイエス・キリストと磔刑。もつ一つはソクラテスの毒殺刑である。  この二つは大きく違うもの、よく似ているところがある。  違うところは死を受け入れたか否かである。  キリストは最後の神を呪ったがソクラテスは国を呪わなかった。  これは、エゴの強烈な差異にある。  イエスにエゴはなかった神と統一していた。   ソクラテスは強烈なエゴが支配し精神そのものであった。  似ているところは後の著述家によって伝説化したところである。

      • 一段階革命論の誤謬

         二段階革命論。すなわち意図的ブルジョア革命を引き起こしその後プロレタリア革命を起こすという論であるがロシア革命も中国革命も封建的な革命からプロレタリア革命が起きた『一段階革命』論であった。  そもそも、プロレタリアが成長してない状況での革命は他国のブルジョア議会制や大工業制をかんがえみても、農民革命にならざらるえず。はっきり言って同時の未成熟な農民ではカリスマ統治にならざる得ない。  カリスマ統治は用意に教権制に陥る。すなわちドグマ学を上から押し付けられ。上からの革命と

        • 自由貿易の欺瞞

           いかにもなグローバリズムの申し子。自由貿易を行えば競争原理が働きよい商品が安く手に入る、からよい。とされていますが。しかし。どうでしょうか?  安く手に入るということは当然。賃金も安くなり得られる貨幣も減ります。  そして、競争とは資本家同士の競争であり。資本家は労働者から搾取『しなければ』生けていけません。  なので自由貿易は賃金がどんどん減っていき資本家の搾取を過激化します。  なので私は戦略的保護貿易を推奨します。

          ただ生きるだけのこと

          人は生きているだけでえらいという『思想』にえらく感動するものだが、それは生きることしかできない奴らの慰めだ。  なんて書いてみる。  こんなことを書いている私も実は生きることしかできない私だ。  芸術とは、捉えなれないなにかを捉えようと努力する痕跡であり、すべてを捉えたこの光の世界では芸術に根拠はない。  なぜ?世界は模造品で溢れているのか、それは世界から芸術が焼失したからだ。  炎の光はすべてを灰にかえる。  我々はみな灰をかぶっている。  オリジナルはオリジ

          ただ生きるだけのこと

          私の書籍探求

           単純に言って私は『最低限健康的で文化的な生活』しか送れないものであるが、文化的という意味においては私は最高限度、文化的だろう。そもそも文化とはなにか?この問い答えるにはさまざまな哲学的な話が必要だったり、しかし文化とはつまり『心の余暇』であったりするのではなんて、考えてみたりします。  余暇とはかつてスコレーなん呼ばれ、学校を意味するスコラ(スクール)の語源になったりします。しかしコレーまた胆汁質意味するギリシアの言葉に近いような。  胆汁質とは随分と長続きしない性分で

          存在の中性の詩

           私の自我は、ある特定の『意味』をもつ。それは精神の黒い学説か白い学説か?端的に言って苦しみか楽しみか?生命に対するおぞましげな感覚を抱く、私の自我、コギトーは脆くも崩れ去りただ中立的な理性だけが残った。それはあまりに形式的すぎるだろう!

          存在の中性の詩

          デジタルネイチャー。情報環境にたゆたう、人間。

          デジタルネイチャーとは何か?  まずは、落合陽一氏のデジタルネイチャーという言葉からの意味から見てみましょう。  バーチャルとリアル(現実)の区別が薄れていき消失し、そして『再構成』される。その『再構成』された、世界こそが『デジタルネイチャー』なのです。 再構成後の世界。   この印象的な文章こそがデジタルネイチャーの世界である。すなわち、我々、人間はコンピューターの与える情報環境に全てを委ね、たゆたっている状態になるのだ。この自動文章作成ツールに果たして作者の意はあ

          デジタルネイチャー。情報環境にたゆたう、人間。

          都市と記号化とSNS

          コミュニケーションとは何か?    そうそれは記号によって伝達される情報のことである。情報とは量によっめ区分される。というのが情報理論であるが。しかし、質的なものも含むのであろうか。量と質はその非還元性から区別されるが、しかしこの世全てか量であるとする数学的思考の妥当性とは何か、確かにこの世界が可算無限でも非可算無限でも、自然数、実数、集合論などに還元できるが、それは共通する質が量には必要である。    しかしそのためには厳密な定義が必要であるが、感覚や自然言語に生きる人間に

          都市と記号化とSNS

          空虚、それは世界の中心である。

           サブカルチャー的コンテンツにおいて主人公と言われる人物が、空虚に映ることはないだろうか?まさしくそれは視ている人の欲望を代表するがごとく、そう自在に姿形を変えて主人公たる『彼』は『俺』であると錯覚させるように。  そして、そのような空虚な主人公が躍り出る舞台は、まさに主人公という存在を中心に全てが回っているがごとく作用する。  もし、主人公とは欲望の入れ物にしかすぎないならば、まさに主人公はある種の全能でなければならない。なぜなら欲望とは混沌とした、全方向に拡散する力そ

          空虚、それは世界の中心である。

          理系と文系一理系至上主義の精神一

           そもそも、理系と文系の区別なとはナニか?理系とは自然科学であり、文系とは文学や社会科学であるという区分か、そもそも、自然と社会と言うモノがはっきりと別れたのは近代以降(近世のガリレオ裁判を見よ)である。いや、今でも別れてはいない。例えば脳科学や遺伝学によって、努力と才能が完全に区別される。と言う事態は果たして自然科学なのか社会科学なのか?  この場合、脳機能や遺伝といった自然的性質や努力や才能といった社会性質の区分は自明ではない。そもそも学問とは現実社会に大して何かしらの

          理系と文系一理系至上主義の精神一