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吾輩は猫であるが、シュレーディンガーを語る

半死半生の猫はあり得るのかもしれない。だが、吾輩はそれが甚だ気に食わぬ。死ぬなら死ぬ、生きるなら生きる。どっちつかずなど、猫の尊厳に反するではないか。しかし、吾輩はその曖昧さの中に、何やら人間どもの迷いと知恵が入り混じっていることに気づく。吾輩がこの姿に転生してからというもの、あの厄介なシュレーディンガーの思考実験が頭から離れないのだ。吾輩がかつては大学の哲学科の准教授であったことは、今や誰も知るまい。運命の皮肉というのか、不運な事故にあって猫になり、今や密閉された箱の中で哲学を語る日々である。そう、まさにシュレーディンガーの箱の中の吾輩。もっとも、この箱は実験装置ではなく、単なる隅っこの段ボールだが。しかし、猫の身になってみると、箱の中での曖昧な存在こそが、現世の人間どもの矛盾を浮き彫りにしているように思える。

シュレーディンガーの猫とはよく言ったものだ。量子力学におけるその猫は、箱を開けてみるまでは生と死の重ね合わせにあると言う。観測者が箱を開けるまで、猫は生きているとも死んでいるとも決められない。ふむ、これは猫にしてみれば、些か気分の悪い話である。吾輩たちは、そんな曖昧な状態で生きているわけではない。だが、もしも吾輩がその箱の中にいるとすれば、果たして吾輩はどう感じるのだろうか。そう考えて、吾輩は己の存在について再び考えを巡らせる。

吾輩が箱の中にいるという状況を、しばしば観察するのは人間どもだ。彼らは箱の外で、あれこれと頭を悩ませている。現代の社会においても、彼らの行動はシュレーディンガーの猫のように曖昧であり、結果がどうなるか分からないことばかりである。会社の会議での議論、選挙における投票、恋愛における駆け引き。全てが箱の中の猫のように、観測されるまでは結末が不確定なのだ。吾輩の観察によれば、人間という生き物はどうにもこの曖昧さを嫌う傾向があるようだ。しかし、一方で彼らはその曖昧さの中に何かしらの意味を見出そうとするのだから、全くもって興味深い。確かに、明確で確定的な結論を出すことが、彼らの世界では安心を生むのだろう。しかし、吾輩から見れば、その曖昧さこそが彼らの世界を豊かにしているようにも見える。物事が決まらないからこそ、人間どもは新たな可能性を考え、時に大胆な行動に出る。そして、その過程で彼らの個性や思考が垣間見えるのだ。

例えば、吾輩が人間だった頃、哲学の講義で学生たちに問いを投げかけたことがある。「もし君たちがシュレーディンガーの猫だったら、箱の中で何を思うだろうか?」と。学生たちは一様に困惑し、誰も即答できなかった。それもそのはず、箱の中にいる猫は生と死の狭間にあり、自らの存在をどう理解すればよいのか分からないのだ。だが、猫の視点からすれば、そんなことを考えるのは野暮というものだ。吾輩たちはただ、箱の中で毛づくろいをしているだけなのだから。人間のように、あれこれと理屈をつけて物事を解釈しようとはしない。

だが、人間どもが曖昧さを避けることが本当に正しいのか、吾輩は疑問に思う。彼らが求める確実性は、時に彼ら自身を窮地に追い込むこともある。すべてを白黒つけなければ気が済まない者たちが、互いに相争う光景を吾輩は何度も見てきた。その姿は、まるで生きるか死ぬかの二択を強いられるシュレーディンガーの猫のようではないか。だが、吾輩たち猫は知っている。世界には、生と死の間に無数のグラデーションが存在することを。

曖昧さの中に身を置くことは、決して弱さではない。むしろ、それこそが生きる上での知恵なのだと、吾輩は思う。曖昧であるがゆえに、吾輩たちは自由であり、観測されるまでの瞬間を楽しむことができる。人間どもも、もっとその曖昧さを受け入れるべきではなかろうか。すべてを知り尽くそうとするのではなく、知らぬままにしておくことが、お互いのためになることもあるのだから。

吾輩が転生して猫となり、この現世を生きるようになってから、曖昧さの価値を実感する日々である。吾輩のいる箱の中は、時に狭く、時に広く感じられる。その不確定な空間こそが、吾輩にとっての自由であり、安息の場である。人間どもよ、曖昧さを恐れるな。そこにこそ、真の自由があり、互いのためになる道が開けるのだ。そう、吾輩は猫であるが、シュレーディンガーの思考を語る。そして、箱の中での曖昧な存在を、今一度見つめ直してみるがよい。


猫は箱の中で、ただ静かに瞬きをするだけだ。生きているのか、死んでいるのか。そんなことは問題ではない。曖昧であること、それこそが猫の哲学であり、吾輩のたどり着いた一つの真理であるのだ。

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