
記憶喪失の男
ピピピピ……ピピピピ……。
アラームの音で僕は目覚める。
いつも通りの朝。
「おはようございます。ご機嫌いかがですか?」
「ご記憶は戻りましたでしょうか?」
これもいつも通りの僕を管理してくれるAIの挨拶。
「いいや、相変わらず ここに来てからの記憶しかないよ」
僕もいつも通りの挨拶を返す。
僕は事故に遭い、記憶をなくしてしまったらしい。
そして療養のためにこの施設で生活している。
AIからはそう聞いているが、記憶がないから何となく他人事のように感じる。
「本日の朝食はバナナ味かストロベリー味 どちらにいたしましょう」
AIの平坦な声が言う。
「そうだね。今日はバナナにしようかな。飲み物は軟水のミネラルウォーターでよろしく」
僕はベッドで上体を起こしながらAIに指示を出す。
すると、すぐにAIルームがある方の壁に設置された小窓のようなところから朝食が出てくる。
これもいつもの光景だ。
「ねぇもう少し食事のバリエーションを増やせないの?スクランブルエッグとか食べたいんだけど」
僕はAIに向って文句を言う。
「もうしわけありません。2030年に発生した未知のウイルスで全世界の家畜が大量死してしまい 卵や精肉は手に入りません」
この話も何度も聞いた。
会話のレパートリーに乏しいAIだ。
僕は起き上がり、朝食を受け取りそのまま口に運ぶ。
バナナ風味のプロテインバー。
栄養はこれで補えるとしても なんとも味気ない。
タマゴや肉が食べたい。
「本日の予定は過去へ移動し眠っている記憶に刺激を与えます」
AIが今日の予定を知らせる。
「今なんて言った?どこに移動するって?」
僕は聞き返した拍子に、プロテインバーが喉につまり激しく咳き込んだ。
「過去に移動し、眠っている記憶を刺激します。2035年現在の野外は強烈な宇宙線が降り注ぎ、まともに外出することができません」
「ですので、安全な時代に移動して記憶を刺激するのです」
「時間逆行記憶刺激療法を10:00より行います」
それきり何を質問してAIは答えなかった。
いつもそうだ。
起床後5分しか会話する時間がない。
それ以外は向こうからの一方通行の指示だけ。
電力の節約だろうか。
それにしても過去に移動するなんてことが可能なのか。
僕は自分が誰で何をしていたのかという記憶はない。
でもドアの開閉やハサミの使い方等の動作や日常生活を
送る上での記憶はある。
僕の記憶では時間旅行なんて夢のまた夢だったが…。
僕はいったいどれだけの間、記憶を失っているんだろう。
多くの疑問は解消されないまま約束の時間になった。
身支度は済ませている。
といっても特にもっていく物はなにもない。
この時代はとくにかく物資が不足している。
過去に移動するならタマゴとか肉が食べられるかな。
ちょっとワクワクしてきたぞ。
記憶よりまずは美味しい食事だ。
それがきっかけで記憶が呼び起こされるかもしれないし。
「準備が整いました。過去への時間移動を開始します」
AIが告げる。
ガチャ。
普段は閉まっている扉の鍵が開く音がする。
外は汚染されている為、窓も塞がれ外出も禁止されていた。
この部屋から出るのはいつぶりだろう。
「マシンルームへ移動してください」
僕は扉を開けて廊下に出る。
今いた部屋は廊下の突き当りにある。
その左隣がAIルーム。
右隣がマシンルームと書いている。
僕はAIルームのドアノブを回してみる。
鍵が掛かっていて開かない。
諦めてマシンルームに入る。
タイムマシンはどんなものなのかワクワクしていたが、その部屋の中には椅子が一脚あるだけだった。
「その椅子に座ってベルトを締めてください」
僕が部屋に入るとすぐにAIから指示がある。
「え?座るだけ?この椅子がタイムマシンなの?」
僕はガッカリして聞き返す。
デロリアンの運転席みたいな装置を想像していたのに。
「この部屋全体がタイムマシンなのです。この建物は昔、集合住宅の団地として活用されていたのです。今回は2025年 この部屋が団地として使用されていた時代に移動します」
「そして あなたが記憶をなくした年でもあります」
そう言うとAIはカウントダウンを始めた。
僕は慌てて椅子に座る。
ベルトも何もない木製の椅子。
座り心地は良くも悪くもない。
それにしても僕は10年間も記憶を失っていたのか?
まったくそんな感じはしない。
逆に10年後の未来へタイムトラベルしたみたいだ。
「終了です。無事に2025年に到着いたしました」
「では気を付けていってらっしゃい」
「記憶が戻ることを期待しております」
AIの社交辞令を受けて 僕は椅子から恐る恐る立ち上がる。
なんの振動も音もしなかった。
タイムトラベルというのは僕の常識が通用しないらしい。
僕は外に出るために部屋から出る。
さっきと同じ。
そりゃそうか この部屋自体がタイムマシンなんだから。
玄関には真新しい靴が用意されていた。
僕は久しぶりに靴に足を入れた。
普段とは違う動作だが、記憶になんのひっかかりもない。
玄関のドアノブを握る。
もし2025年に到着していなかったら?
宇宙線をもろに浴びることになる。
最悪 死ぬかもしれない。
3分程そうしていただろうか。
外から声が聞こえてきた。
僕は驚いた。
外に人がいるってことは時間移動が成功したということだ。
ここは2025年なんだ。
外の声が少し大きくなる。
男女の声のようだ。
「……じげんを…」
「……ロケット…ン…」
ダメだ聞き取れない。
僕は意を決してドアノブを開けた。
外は夜だった。
さっきまで朝だったのに。
時間移動の影響か。
扉がいくつも並ぶ廊下にでた。
久しぶりの外の空気。
気持ちがいい。
僕は両手を広げて大きく深呼吸した。
その僕の行動がおかしかったのか、廊下の中程にいた男女がこっちを見ている。
人間だ。
久しぶりに見た。
僕はチラッと今出てきた部屋の扉を見る。
「402号室」と書いてある。
ここは4階なのか。
そんな重要ではない情報を咀嚼する。
男女の方から近付いてくる。
特に武器のような物はもっていない。
ひとまず安全だと思う。
「こんばんは」
廊下にいた若い男が僕に挨拶をする。
「こ、こんばんは…」
僕は久しぶりの人間との会話に緊張しているようだ。
呂律がうまく回らない。
「あなたも なにか変わったことがありましたか?」
若い男が僕に質問する。
初対面の人間にする質問としては不思議な問いだった。
でも変わったことはあった。
僕は未来から来たんだ。
でもきちんと確認しないと。
「僕は2035年から来ました。ここは2025年ですか?」
僕の返答に 若い男は満面の笑みを浮かべた。
若い男の後ろにいた 少し疲れた様子の女は驚いたような表情をして口を開いた。
「ねぇあなたはロケットマンを知ってる?」
僕はわからないと答えた後、お願いをしてみた。
「すみません。お肉を食べさせてもらえませんか」