【医師エッセイ】潔癖症の後輩
■潔癖症で頑なな彼女が犬を飼う時
「ずっと子どもの頃から犬が飼いたかったんです」
猫派の私としては聞き捨てならないというよりも、妹が小学生の時に顔を近所の犬に嚙まれたこともあり、私は犬が大の苦手です。
「えー。君、潔癖症じゃん」
医局の机を何度もアルコール消毒して、医学書の並べ方にもこだわりを持つ後輩の女性医師の発言に私はそう言いました。彼女の潔癖症は有名ですし、みんなで食事に行ったとしても同じ鍋をつつくことさえできません。そんな彼女が、毛玉を飛ばす犬を飼いたいというので、私は驚きました。
「でも、飼いたいんです」
彼女は強い意志を持ってそう言い切りました。
医局の大半も私と同じ意見の中、彼女は雪の多い金沢でも飼えるようにと、北海道犬をブリーダーから買ったのでした。
■犬と結婚と潔癖症
今から20年前は、ネットも黎明期にありましたから、遠くに住んでいる犬を飼うのは簡単ではありません。ペットショップから人のつてをたどって、ようやく手に入れた犬。彼女にとっては子どものようなものなのでしょう。整然とされていた彼女の机は、いたるところに彼女の犬の写真ばかりになったばかりか、彼女の犬「スカイ」の話を聞かされることになりました。空の雲のように白いから「スカイ」だそうです。一匹の犬が、彼女を変えました。
スカイがさぁ、出かけるときにすごく寂しがるわけよ。
納得させて出かけないと、家の中のものめちゃくちゃ。
この前なんて、クッションの中身、全部ひっくり返されちゃったわよ。仕事帰ってから散歩に行くけと、スカイは気に入った道を選ばないとへそ曲げるの。でも、しつけて主人の言うこと聞かせるためにわざと私が道を選ぶの。しつけって難しいわよね。
潔癖症でいつも身なりを整えていた完璧な彼女も、スカイの機嫌をとっているうちに、すっかりズボラになっていました。スカイは1日に2回は散歩に行かなければなりません。朝と夕方に散歩に行くとなれば、これまでの生活習慣を変える必要もあります。しかし彼女は毎日、楽しそうでした。
そんなある日のこと。
「先生、私今度結婚するんです」
「そうなんだ。いい人見つかってよかったね」
聞けば、犬の散歩をしているうちに出会ったそうです。
■犬と旦那に変えられた彼女
スカイはうんちをしたくなるとガニ股で歩き始める。散歩中でも、うんちの処理は大変なので、ビニール手袋で直接、うんちをキャッチするそうです。
あんな潔癖症だった彼女が‥。
意外でした。
「腹をくくったらそんなに大したことないわよ」
確かに彼女のデスクには未処理の書類が山積みとなり、隣の先生とその高さを競っているようにも見えます。
「まっいいかって言うのも悪くないです」
そう言って彼女は笑います。
彼女の好みの男性は、当時の3高。高収入、高身長、高学歴でしたが、全然結婚したお相手は違うそうです。私のことが好きで、スカイのことも好き。それが大事だと考えたら、この人がいいって思えたと言っていました。
結婚を決めてからの彼女は、スカイを飼い始めてからよりもさらに変わりました。一番変わったと思ったのが、
「誰かとご飯食べるっていいですね」
と、彼女が言うのです。潔癖症で、人と食事などしたくないと言っていたのに。
彼女に依頼する手紙を彼女のデスクの山のさらに上に置いていく医事課職員から、「先生からも早く書類を書くように言ってください」とため息まじりに言ってきます。私は潔癖症ではありませんが、書類をためるのと机の上に物を置くのが嫌なので、机は綺麗なものです。
だから家で、サイドボードの上などに、奥さんや我が子4人の私物が置いてあると気になって仕方がありません。これが我が家では、私の地雷となっています。
私がそんな話をすると、
「犬も旦那も子どももいればそんなもんよー」
と、彼女に諭される側になってしまいました。人というのは、誰といるかでこんなにも変わるものなんだな、と彼女を見ていると思います。
スカイはソフトバンクのCMの犬種と同じです。だから、ソフトバンクのCMを見るたびに、私は彼女のことを思い出します。もう何年も会っていませんが、旦那と犬と一緒に幸せに暮らしているんだろうなと思うと、口元が緩んでしまうのです。