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【医師エッセイ】医師そして人としての成長

 成績を少しでも上げよう。
 あいつより成績を上げるのだ。
 成績を上げるためなら、なんだってしてやってもいい。
 そんなことを考えてばかりいた学生時代だった。実際に周りの友人よりも成績を1点でも多く取ることに躍起になっていたし、順位を1つ上げるために、血の滲むような努力をしていた。その先に何があるとか、そういうことは考えていない。そうしなければいけない、という脅迫概念から私は勉強をしていた。
 私が子どもの時代というのは、親も学校の先生も周りの大人も子どもも、人間を成績で評価していた。いや、成績でしか個人を評価していなかったともいえる。
 だから私は、それが当たり前なんだと思っていた。しかし、学生時代が終わって社会に出てみると、必ずしも成績が良かった友人が成功しているわけではないような気がした。むしろ私より成績が悪かった友人の方が、評価を受けていることさえあった。なぜそんなことが起きているのか、私は理解に苦しんだ。意味が分からないからだ。
 私の職業は医師だが、例えば医師は論文を読んだり、論文を書ける医師が、いい医師なのか、というと、そうではない。しかし、学生時代、成績が良いものが評価を受けるということは、医師の世界では論文が読めたりかけたりする方が評価されるというのと、同意なはずだ。だが実際は、違う。
 もちろん、論文をたくさん読み、論文をたくさん書き、世の中に出している医師も、悪い意志ではない。しかし、患者の気持ちに寄り添い、話を聞いて優しい言葉をかけてくれる医師の方が、患者からすると、よほど良医ではないだろうか。少なくとも私は、自分が患者なら、後者の医師にかかりたい。
 そんなことを漠然と思っていたら、最近は新しい考え方が出ていることを知った。最近の学校では、知識や論理的思考などの「認知能力」を学ぶだけではなく、性格や態度、行動パターンなどの「非認知能力」を学ばせるほうが重要なのではないかと、考えられている。
 もちろん認知能力も重要だ。でも成績よりも心が優しかったり、みんなと仲良できたり、した方が社会に出てからは役に立つのではないだろうか。それに、私も親になり、子を持つ父となったが、父の立場からしても、優しく、友だちと仲良くできる子どもに育ってほしいと思うものだ。
 勉強は数字で表れるため、わかりやすい。勉強をしたのか、していないのかは点数を見れば判断が付くからだ。だから、点数がよければ褒めるし、悪ければきつい言葉を言うこともある。親としては当然のことだろう。
 でもいつも結果ばかりを求められていたのでは、子どもも息苦しくなってしまう。自分でも今回は出来が悪かった、失敗したと思っているのに、頭ごなしに「しっかりやらないとダメじゃないか!」と怒られれば、私は何てダメな人間なんだと落ち込んでしまう。
 もちろん、親が怒ることが悪いことではない。ミスをしたのだから、親から怒られなければ、何の期待もされていない人間なんだと、子どもは落ち込んでしまうからだ。
 子ども心というのは、とても複雑である。だけど、自分が子どもの時、もし親が怒るだけではなく、
「一緒に見直ししてどこが悪かったかもう一度振り返ろうか」
 なんて声をかけてくれたら、私は落ち込むだけではなく、親が見てくれているから、もっと頑張ろうと思えたはずだ。それに、親にそう言われれば、失敗したからと言ってダメな人間なんじゃない。また頑張ればいいのさ。
 という風に思えただろう。だから私は、自分の子どもたちには、そうやって接している。
 だが、世の中の家庭では、まだまだ点数が良ければ褒め、悪ければ怒るだけの教育をしている親も多い。
 なぜ親が、子どもの立場に立って話をすることができないのかと言うと、怒るだけのほうが簡単だからではないだろうか。怒る、褒めるの二択しかないなら、ロボットでもできる。人を育てるということは、ロボットにはできない。それほど人間というのは、複雑で難しい生き物だ。だから時間も手間も書ける必要があると、私は思っている。
 認知能力も大事だが、非認知能力も重要だ。
 人の親となり、50歳を超えて、ようやくわかってきたことでもある。
 そうして色々なことを学んだ私は、ようやく友人の成功を心から祝えるようになった。それができるようになり、客観的に見ても私は、人として成長したのだと思う。子どもたちにも、こういった精神を持ってほしいと願っている。

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