ふた首

自分の中に潜む不可思議な自分の話しをしようと思う。
あれは、いつ頃だったか。

色んな出来事が起きていて今ではすっかり忘れてしまっている。
確か、12年程前の事だったか。
あの頃は自身の環境が全て総崩れとなって何をどうしたら良いのかも分からないまま時だけが流れていたように思う。

自分が何かをしたからこうなったのか、それとも誰かや何かのバチでも当たっているのか。
考えても、思い返しても、
これだというモノが何一つ思い浮かばなかった。

原因を見つけ出すことは出来ないが、明らかにその不明な原因に寄る悲惨な結果だけは身の回りで何度も起きていて、私の生きる環境を脅かしていた。

ソレは、とても、苦しかった。

未来が完全に閉ざされたと思った。
逃げ道も、危険を回避すべく考え出される良き案も、何もかも消え失せていた。
絶望しか残っていなかったのだ。
絶望だけが見えていた。
明日の事を心配する余裕すら消え失せていた。

今、この瞬間、溢れ出る不安と恐怖にただ堪える事しか考えられなかった。
そして怯える事しか出来なかった。

どうしよう。どうしたらいい。
何が悪かった。どこで間違えた。何故こうなった。
どうしよう。どうしたらいい。
どうしようどうしようどうしよう

それ以外、本当に何も考えられなかったのだ。

真っ暗な奈落の底に落ちていた。
ただただ、堕ち続けるだけだった。
どのくらい堕ちたのか、随分と深い奈落の底にもう1人の自分を見た。

ソレは、冷たい眼をして、何も考えていない様な気がした。
真っ暗闇な奈落の底から抜け出す気力さえも持たない様子だった。
暗闇しか知らない自分を見つけたような気がした。

その、もう1人のワタシは、腕から上の半身だけを出し、それ以外は全て暗闇の中に浸かったまま、
今、奈落の底に堕ちて苦しんでいる私の斜め背後にぴたりと張り付いた。


私は、奈落の底に陥ってこんなにも苦しんでいるのに、何故、もう1人のワタシは恐ろしい程に冷静なのだろうか。

私はもう1人のワタシに向かって「助けて欲しい」「ここから抜け出したい」と伝えたと思う。

もう1人のワタシは、表情1つ変えもせず、ぐい と私の両肩を押し、更に深い奈落の底に沈めようとする。

激しく抵抗をする私の恐怖など、全く興味無さげに、淡々と、さも当然とでも言いたげに、益々力を込めて行く。

奈落の底の暗闇の絶大な力には、私の抗いなぞ適う訳もなかった。

ずぶずぶと、底をもしれぬ深い深い闇の中で、私はワタシと対峙していた。

暗闇の中のワタシはずっと呟いている。

「愛している」

何度も何度も繰り返し、
ワタシは、私に呟いてくる。

粘つく闇の中の奈落の底に引きずりながら、
ブツブツと呟き続けている。

奈落の底のワタシとは、
捨てようとしてきた過去の自分だと気づいていたと思う。
 捨てきった筈だった。
こんな出来損ないのワタシなんかとっくの昔に抹殺していたはずだ。

なのに。
今こうして目の前に現れている。
何の救いにもなりはしないダメなワタシのクセに。
役に立たないから捨てるしかなかったワタシのクセに。
目の前に表れたばかりか、この私自身を更に暗い奈落の底に引きずり込もうとしていやがる。

だが、何故自分が自分に苦しみを与えると言うのだろう。
滑稽ではないか。
こんな馬鹿げた話しなど有るわけがない。
私はあらん限りの抵抗を試みた。

だが、目の前に広がる暗闇の絶大な力には、非力な私など太刀打ち出来るはずも無かった。
幾ら抵抗を試みた所で、暗闇にはなんの影響もなかった。

それどころか、私がワタシに抵抗する度に「愛してる」と呟いてくるのだ。

私は、ワタシの言う「愛してる」の意味が全く解らなかった。
私の知っている「愛してる」とは何もかもが違うと思っていた。

疲れきった私が抵抗を諦めると、そのまま暗闇に引きずり込まれ、もう1人のワタシに背後からピタリと張り付かれていた。

何も考えられなかった。
ただ、暗闇に溶けて奈落の底へどんどん堕ちていく。
深く深く堕ちていく。


喉が渇いた様な気がした。
斜め背後から、小さな匙を持ってワタシの手が、にゅうと現れる。

甘ったるい蜜が乗せられた小さな匙を無理やり私の口に押し付け、こじ開けるようにして胃の腑に流し込んできた。喉の渇きはもっと酷くなった様な気がした。

私は自分が切り離した筈のワタシに復讐をされているのかと恐怖した。

「愛してる」

表情ひとつ変えず、
ワタシは私に甘ったるく苦い蜜を何度も流し込んできた。
忘れたい記憶が蘇り、何度も胃の腑が大きく動いた。
受け入れがたかった。
涙や鼻水と共に何度も胃液が込み上げ、寒気がした。

私が上へ戻ろうとすれば、
ワタシは、下へ引きずり落とす。
私が嫌だと抗えば、
ワタシは無限に嫌なものを与え続けようとしてくる
私が泣いて赦しを請えば、
ワタシはただ「愛してる」と永遠に呟き続ける。

私は、もう1人の自分、
捨てた筈のワタシに出会って、
廃人になったのだ。と信じた。
新たな絶望だった。
絶望だけが引き寄せられていた。

もう、術など無いんだ。
抵抗するのも諦めた。
そんなモノ無駄に決まっている。
適う訳など無い。


捨てた筈のワタシに与え続けられる甘ったるい蜜を、胸焼けを感じながらも受け入れた。
何度も吐きそうになりながら無理やり飲み込んだ。
唾と密と涙や鼻水と混じりあってとても穢らわしい。
とっくに捨てた筈なのに。

「愛してる」と言うワタシの呟きを聴きながら
そうか、そうなのか、
ワタシは私を愛してくれているのか。
私はワタシを捨てたかったのに。
諦めの涙が溢れてくる。
捨てられないのだと絶望する。
もう術は無い。

私は、捨てた筈のワタシから、逃れられないのだ。
このままずっと、ワタシに張り付かれたまま、
切り離してきたワタシの意のままに生きていくしか残された道は無いのだ。


ずっと「愛してる」と言う戯言を聴きながら、
しくしくと痛む胃を抑えながら、私は捨てた筈のワタシとひとつになっていく。
忘れきっていた惨めなワタシを何度も思い出し、その度に反吐が出そうになる。
そしてそのワタシは私の中にじわりじわりとゆっくりと滲みこんでいった。

その日から、12年と数ヶ月が過ぎていた。

奈落の底だと思った場所は、私の心の奥底だった様に思う。
いや、腹の腑だったのかもしれない。
胸焼けもいつの間にか無くなっている。
捨てた筈のワタシからの「愛してる」と言う呟きは聴こえ無くなった。

だが、あの時統合した奈落の底のワタシに向かって
今度は、私から時々囁きかける。

「愛してるよ」

ピクリと内臓が小さく蠢くのを感じて、
ふふふ  と笑う。
愛おしさを感じて腹をそっと撫で回す。

12年前の不安や恐怖心は、全て消えた訳では無いけれど
捨てた筈のワタシとの一体感に、今は安らぎだけを感じてしまうのだった。

不安や恐怖心は、もうさほど気にならなくなっている。
そんなモノはいつだって何処にだってゴロゴロ有るに決まっているモノだ。
何をそんなに恐れていたのだろう
とさえ思えるようになった。
随分と現金なものだ。
思わずニヤリとしてしまう。

ねぇ、今日はどうしたい?
鏡に写る自分に向かって毎朝呟く。
ピクリと微かに蠢く私の腹の腑。

そぉっとお腹を撫でながら
お茶でも飲みながらゆっくり考えようか。と思う。

今日は天気が良い。
なんとなく心地よい。
いい気分だと思う。

12年前と現実の状況にはさほど変わり映えは無い。

あの時もう1人のワタシを見つけただけ。
私が捨てた筈のワタシに支配されただけ。
ふた首のワタシは、抗える相手では無いと諦めただけ。
奈落こそが、自分を自由にしてくれる楽園だったと気づいただけ。



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