「活動あって学びなし」論の嘘
教育現場に蔓延する「活動あって学びなし」論
研究授業の指導講評でよく耳にする言葉。
「今回の授業では、子どもたちは楽しそうに活動していたね。でもそこには学びは少なかったね。活動あって学びなしですね。」
というような話を、教師なら誰しも聞いたことがあるのではないでしょうか?
この言葉について、私なりに思うことをまとめてみます。
「活動あって学びなし」論の問題点
①教師が思う「学び」しか「学び」として認めない風潮
この言葉が使われる場面を具体的に考えてみましょう。
・小学校3年生の体育の鉄棒の授業で、子どもたちが鉄棒で楽しそうに、前回り下りや足掛け周りをしている。授業の中で逆上がりの指導をしないことについて、「活動あって学びなし」と指摘する。
・6年生社会の授業で、縄文時代の絵を見て、児童がそれぞれ気づいたことを話し合う場面。授業の中で、縄文時代の食生活や住居について十分に触れていなかった。(この2つの例えが適切かはわかりません)
いずれの場合も、教師が思う「学び」が固定化されていることが問題だと思います。
一つ目の場合は、鉄棒=逆上がりができること。二つ目の場合は、縄文時代の衣食住について学ばなければならないということ。
その視点も間違ってはいないと思いますが、あまりにも「知識・技能」の習得に偏りすぎていると、私は思います。
「思考力・判断力・表現力」「主体的に学ぶ態度・人間性」などの視点が欠けている。
上の場合でも、実は子どもたちは思考を働かせているかもしれない、興味をもってやってみることや調べることの楽しさを味わっているかもしれない。
また、激動の現代において、教師が持っている価値観など5年後10年後には役に立たなくなっているということも考えられる。
その意味でも、「○○を習得しなければならない」と凝り固まった価値観で子どもを見るのは危険だと思います。
②「活動=学び」である
そもそも、活動と学びを分けて考えることに問題があると考えます。
「活動=学び」の場合もありえると。
例えば鉄棒の授業だと、実際に技をやってみることで、自分にとって鉄棒が楽しい、得意だ、反対にあまり得意ではないかも、と気づく。
座学でいくら、鉄棒は楽しいよ、こういう練習をするとできるようになるよ、と教わったところで、鉄棒に対する楽しさは育まれないし、できるようにはならない。
つまり、大人から見ると一見的外れな行動のように見えても、実際にやってみることで、子どもたちは実はその活動自体の楽しさややり方などを学んでいることがある。
「活動あって学びなし」と言う人には、「活動=学び」になりうるという視点が欠けている場合が多いのである。
その根本には、①で述べたような「学び」に対する価値観の偏りがあるのだと私は思います。
「活動あって学びなし」と言う指導者はちゃんと子どもを見ているのだろうか
正直この言葉を使う指導者はあまり信用していない。
なぜなら、「教えるべきこと」に目を向けすぎて、「子どもの様子」をないがしろにしているように感じるからである。
子どもが活動を通して考えることが、たとえ教師の意図と違くても、そこには何かしらの学びがあるはず。
子どもの考えに真に寄り添える教師になりたいと思う今日この頃である。