大山礼子著『日本の国会』岩波新書から学ぶ政治学~憲法と制定当時の国会法において想定された立法のあり方について~
はじめに
この記事は大山礼子著『日本の国会』岩波新書、2011年の内容を自分なりにまとめたものです。レポート作成の際に、参考資料としてご利用ください。
●憲法と制定当時の国会法において想定された立法のあり方
1947年に施行された日本国憲法は、国家権力を、立法権(国会)、行政権(内閣)、司法権(裁判所)の三つに分け、三権の抑制と均衡によって権力の濫用を防ぎ、国民の権利と自由を保障せんとする三権分立と呼ばれる体制を取った。ここで国会は、「国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」(41条)と定められており、ともに全国民を代表する二つの議員、衆議院と参議院の二院制で構成され、両院が協力して立法を行うことが求められた。衆議院と参議院から提出された法案は、国会の活動を効率的に進めるために設置されている常設の委員会である常任委員会によって審議が行われるものとされた。
立法を主導するのは、基本的には国会議員である。国会議員は、議案(法案)を提出する権利を有しており、これは「議員立法」といわれる。しかし、実際には、憲法第72条で「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。」と定められている様に、内閣も重要な役割を果たしており、内閣は国会に対して法案を提出し、政策の実現を図る権限をもっていた。これが「内閣提出法案」と呼ばれるものである。
●戦後初期の国会運営の特徴
戦後初期の国会運営には、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が大きな影響を与えていた。GHQは日本の民主化を推進するために、議員が主体的に立法活動を行うことを奨励し、そのための法制度や手続きを整備した。GHQによる指導を経た1947年の旧国会法では、議員が自由に法案を発議できると定められ、またすべての議員は、議案を発議することができ、議員が中心となって立法を担うことが期待された。しかし、実際には、法案がすべて議員提出によってなされる形式を取るアメリカ連邦議会と異なり、議員多数派のリーダーが構成する内閣によって政策立案が主導される形式を取った日本の議院内閣制では、議員立法を実現することはなかなかに困難であったために、戦後の初期の国会では内閣提出法案が法案の大多数を占めていた。
こうした状況を踏まえ、1949年には、14人の国会議員から成る渡米議員視察団がアメリカの立法手続きを研究するために渡米し、帰国後「国会における現実希望事項」と称する申し立てを行い、内閣提出の議案以外の法律案は党を通じて議員より提出することに改めるようが勧告なされた。この勧告を受け、政府はしばらくの間「依頼立法」と呼ばれる政府が準備した法案を議員に依頼して提出するという方法をとるようになった。この結果、議員立法の件数や成立率の増加がみられるようになったが、実際にはこの方法は内閣に権限が集中した形式的な議員立法に過ぎなかったため、数年後には衰退した。
1955年には、議員立法による政治の混乱を避けるために、国会法第5次改正がなされ、手続きの面から議員立法に制約が加えられた。具体的には、議員の20以上、参議院では議委10人以上の賛成(予算を伴う法律の場合には、それぞれ50人以上、20人以上の賛成)が要件となった。その結果、個々の議員や小会派の立法活動が制限されるようになり、ますます内閣法案が優先されるようになっていった。また党派を離れた議員同士の討論の場であった自由討議制もこの改正によって廃止された。こうして、立法のあり方は、議員の個人の発議が中心であった初期の体制から会派による発議が中心となった体制が取られるようになっていったのである。
●結論
憲法と制定当時の国会法においては、国会が立法の中心であり、議員立法と内閣提出法案がその主たる手段として想定されていた。戦後初期の国会運営においては、GHQによって議員立法が推進されたが、実際には内閣提出法案が多数であった。その後、1955年の国会法改正がなされ、議員立法の厳しい要件が課せられたことにより、実質的に主に内閣が立法を主導する体制が推し進められた。