
続 青臭い女と擦れた男の話 20
長い話が辿り着いた先は安堵か苦行か!儚い命と向き合う 完
愛娘の晴れの門出
「心菜、いよいよ明日なのね」
私は、感慨深い涙目で心菜を見つめた。
直也は、可愛い娘が他人に取られるのが寂しくて少し拗ねている。
遂に愛おしい心菜を手放す時が来た。
心菜の夫になる人、山本淳也君は、配属部署こそ違えど、直也が以前働いていた部門の若手である。
交際2年を経る心菜の評価では、淳也君はとても優しく頼もしい人らしい。
直也や心菜の話を聞く限りでは、二人の将来には何も懸念は無さそうだ。
この時代には珍しいが、3ヶ月前、ご両親と共に見えられ、随分丁寧な挨拶をいただいた。
「お父さん、お母さん本当にありがとうございました。私に弟達と変わらぬ愛情を注いで育ててくれて、山縣心菜は、明日から山本心菜になります」
「私達の方こそ、お礼を言わなければならないわ」
不思議そうに見返す心菜に
「貴女がいてくれたから、私達はほんの少しだけど成長も出来たし、心菜の優しさと笑顔に、何度救われたか知れない。
心菜がいなかったら今の私たちはいないのよ、本当にありがとう」
心菜を抱きしめながら、
「今よりももっと幸せになるのよ。でも、もし辛い事があったらいつでも帰って来てね。ここは永遠に貴女の故郷だから。」
「ありがとうお母さん、私は本当に幸せ者です。真矢ママにも牧田ばあば(心菜がそう呼ぶ)にも、明日の晴れ姿を見て貰えないのは本当に残念だけど」
直也が、暖かい眼差しで、号泣しながら抱擁する私と心菜を見て、
「いい大人がみっともないぞ」
と涙目で笑っていた。
直也は、少しだけ真剣な顔になって
「心菜、本当のお父さんを探さなくていいのか?」
心菜は毅然として
「私には、お母さんは2人居るけど、お父さんは“山縣直也”たった1人です。こんなに愛してくれる両親は、何処にもいません!」
私達夫婦は、又涙に濡れて心菜を抱きしめた。
正式に山縣心菜になって早20年、心菜は26歳になっていた。
ここまで来るには紆余曲折あったけど、今は誰の前でも臆することなく「本当の親子です」と言い切れる。
きっと真矢さんも、空の上から祝福しているに違いない。
(どうぞ、ご安心ください。貴女と私達の娘は、幸せな人生を歩み続けます)
そっとつぶやいた。
心菜の入学写真を抱きしめて
心菜6歳の春、愛おしい娘の入学式の写真を胸に真矢さんは不帰の客となった。
幼い心菜と3人で、脊髄の癌細胞摘出手術で、自力では起き上がる事すら出来なくなった真矢さんの病床を何度も見舞った。ガラス越しの面会が多かったが、それでも彼女は大層喜んでくれた。
真矢さんは、当初もって一年、早ければ数ヶ月と言われていた。
しかし驚く程の生命力で、5年間もの長き苦痛に耐え、緩和ケア病棟で、日々成長していく心菜の姿を待ち侘びていた。
最後は、播種した癌細胞が大きくなり、脳内を水と共に占拠し、無情にも全ての機能を奪ってしまった。
もう、意識も無く、心菜の手を握る事も顔を見ることも出来ない筈なのに、必死に身体を動かそうとしているのか、微かに震えながらこと切れた。
唯一の宝物に看取られて旅立つ
幼い心菜には、酷かもしれないと思ったが、実の母親の最期を心の中に留め置いて欲しかった。
真矢さんが、どんなに心菜と一緒に暮らしたかったかを知って欲しかった。
心菜が、真矢さんの心の中で世界中でたった一つの宝物だったことを、幼い心の隅に記憶しておいて欲しかった。
心菜は、涙を浮かべて「真矢ママバイバイ」と言いながら私の腰に縋りついてきた。
真矢さんは、緩和ケアと言う言葉を振り切る様に頑張っていたが、心菜が5歳の夏、余儀なく直也と私に幼い心菜を託した。「私の意志が健在なうちに、心菜を正式に山縣家へ迎えていただけないでしょうか?有難いことに心菜は、すっかり美羽さんを母親と思っているようです」
心菜は、2歳の頃から私達と家族同様に暮らしていたので、不思議な表情で私を見つめるだけだった。
真矢ママが、本当の親だと言う自覚はあまり無かったのかもしれない。
勿論、私達夫婦に異論があろう筈はなかった。
この時は、私も既に双子を出産していたので、出産の辛さや我が子の愛おしさは十分すぎる程理解できた。
心菜が、正式に我家の娘になるのはこの上ない喜びだが、真矢さんから取り上げてしまう事への罪悪感が心に広がった。
私の心中を察してか、真矢さんは
「感謝してもしきれない程の愛情を、心菜だけでなく他人の私にまで頂きました。お二人の想像に余るご苦労のお陰で、心菜はすくすくと優しい子に育ってくれています。本当にありがとうございます。どうぞこれからも心菜をよろしくお願いいたします」
私は、下げたくても下げられない頭を必死で下げようとする真矢さんの手を握った。
「いいえ、こちらこそ感謝いたします。これほど優しく可愛い子を産んで下さって、そして至らぬ私共に任せると言ってくださって、身に余る思いです」
それから間もなくして、面会も儘なら無くなった。
真矢さんは、心菜を託した事への安堵からか寂しさからかは不明だが殆ど眠っていいる様になった。
スタッフに呼ばれて駆けつけた時には、既に意識がなかった。
育児奮闘そして人生の師匠との別れ
心菜を、2歳で入籍後間もない2人の元に連れ帰った時、私は喜びに舞い上がった。
やはり、牧田氏に言われた通り、家裁での手続きが必要だった。弁護士の力を借りて、やっと山縣心菜として迎え入れることができた。
私は、退職して、御飯事のような生活を心菜と昼夜楽しんだ。
お人形さんのように可愛い心菜に、何でもしてあげたくて欲しがるものは何でも買ってあげたかった。自分の心を鬼にして、セーブするのに随分苦労した。
しかし現実は甘くなく、牧田氏や両親が心配した通り、子育て中は様々な壁が家族の前に立ちはだかった。
心菜は初めのうち、夜中に突然飛び起きて「ママ、マーマ」と泣き喚いた。
「ママだよ」と宥めて抱いて歩きながら寝かせた。一緒に泣いた時もあった。
泥だらけで泣きながら帰って来た時には、暫くの間毎日通学に付き添った。
双子の弟達が生まれた時、保育園に通い始めた時、高熱を出した時、軽い反抗期の時、お友達に虐められた時、早い思春期の時などなど、思い起こせば懐かしく胸が熱くなる。
その都度、牧田氏や実家の親に助けて貰い、心菜は、眩しい程明るく聡明な子に成長し、弟達も、優しい心菜を慕っている。
今の心菜があるのは、周りの多くの人達の助けがあってこそだ。
近くに住む、牧田氏には自分の孫でもないのに、幼い心菜や弟達に溢れるほどの愛情を貰った。
その牧田氏は、1年前、98年と言う暖かで愛の溢れた生涯の幕を静かに降ろした。
牧田氏の死は我が家にとって、辛く悲しい出来事だったが、彼女が私達に寄り添い、紡いだ物語は名著となり、永遠に私達家族の心に残るであろう。
幾つもの出会いの中で、私たちは生かされて来たと、苦労にすら感謝の念が湧いて来た。
次の話