チョコレートブラウンの板塀のある家 7
雲ひとつない空は恐ろしくさえ感じる
いつもと変わらない景色の中を風が泳いでいる。明日は雨なのだろうか、小鳥が車の屋根スレスレに滑空して行く。
母の旅立
施設に入所して15年目、母のアキヨは旅立った。
肺炎を患い急遽入院するも、処置の甲斐もなく、長子が見守る中寂しい生涯を閉じた。
職場にいた雄介の携帯に、呼吸器をつけた母が表情を歪めながらピースする写真が送られてきた。淋しさからか、否、苦痛からか目尻に白く光るものが見えた。雄介と愛理が駆けつけた時、既に母は愛する父の元へ逝った後だった。
ガラケーからスマホに変えてしまった今も、最後の写真はUSBメモリに大切に保存されている。
何かに行き詰まった時、辛い時、書斎に鍵をかけてそっとパソコンを開き、もう語りあうことなどない母に心で問いかける。
「母さん幸せだったかい?」
父亡き後女手ひとつで育ててくれた母を、郷里にたった1人で残して都会に出て、結婚後も都会に住み続けている。近所に家があるとはいえ、同居家族のいない寂しさは如何ばかりだっただろう。
妻の美恵と一年程付き合って、結婚したいと実家に連れて帰り母に逢わせた。玄関を開けた時、母は異物でも飲み込んだのではないかと思うような引き攣った顔をしていた。
しかし茶の間で正式に紹介すると、母は「そう、雄介の事お願いしますね」と笑顔で言った。
後に聞いた話だが、母は、知り合いの娘さんと雄介が、結婚してくれれば良いなと、見合いの段取を進めていたらしい。「気立てが良く容姿端麗だった」と、母はいたくお気に入りだったようだ。
そこへ雄介が美恵を連れて帰ったのだから、笑顔で応対しながらも母の落胆は計り知れない。勿論、この事は今も美恵には話していない。
雄介の都合ではあるが、優しい母を美恵にも大切にして欲しかった。
しかし、美恵は自分たちの家にあまり母を招きたがらなかった。
母もまた病弱を言い訳に、雄介の家を訪ねる事は生涯で数回しか無かった。見えない溝が2人の間にあったのだろうか。
我が家には美恵の母が足繁く通って泊っていく。
いつの間にか、雄介は苦手だった義母にも慣れ、孫たちの世話をしてくれる事を有難くさえ思うようになっている。
アキヨが来て不快な顔をされるより、美恵が穏やかな心でいてくれる方が嬉しい。我々夫婦の家庭なのだから。と雄介は思うようにしていた。
葬儀
築100年以上絶つ実家は15年もの間、主を失い荒れ果てていた。郵便物の関係で、住民票を長子の家に移していた母は、病院を出ても自宅に戻る事なく、葬祭ホールで通夜を迎えた。
「翔太!何してるの?」
愛理の頓狂な声に、居合わせた親族が一斉に注目した。
愛理の孫が、母の布団に潜り込んで、顔を曾祖母の身体につけて嬉しそうにしている。
まだ2歳にも満たない無邪気な姪孫の姿が、雄介の記憶を断片的に蘇らせ、昔の自分と重なった。
雄介も遠い昔、冷たくなった父の布団に潜り込み、内容までは覚えていないがしきりに話しかけた。
眠っていると信じた父に起きてほしくて、遊んでほしくて、何故かわからないが可哀そうで、ただひたすら返事をしてくれるのを待っていたような気がする。
翔太も、曾祖母に頭を撫でて「可愛いね」とでも言ってほしかったのだろうか。
母を送る儀式は、結局話し合って家族葬にすることにしたが、父母は共に兄弟が多かったのでかなりの人数になった。
父方のほうは既に代替わりしていたのだが、母方のほうはまだ弟妹が4人健在であった。そして従兄弟たちも全員集合してくれた。
しかし嬉しいはずの大勢の列席なのだが、恥ずかしいことに、こちらの不手際で最後に皆んなで囲む、精進落としのお膳が不足してしまった。席に着いてから足りないことに気づき慌てたが、間に合わないので当家が控えることにした。
父の葬儀の頃は仕出しもあったが、組内の人がお膳を用意してくれたので多少の増減は問題なかった。今は、きっと田舎でもお膳を手作りすることなどなく、仕出し屋にお願いするのだろう。
便利で楽な事の裏には、大きな不自由が隠されているものだとしみじみ思った。
何事も緻密な計画を立て実行しないと、とんでもないことになる事を、申し訳ないが、大切な母の葬儀で勉強させてもらった。
言い訳になるが、人の旅立ちは突然に来る。
母が、あれ程急に容体が悪化するなど、誰もが想像していなかった。
急な連絡にも、万障繰り合わせて列席してくれた親戚一同には頭が下がった。にも関わらず、当屋が不手際をするなどもっての外である。
叔母であるアキヨを、第二の母と慕う従姉妹は、涙目でアキヨとの思い出を聞かせてくれた。他の従兄弟達も話に加わり、賑やかに父の待つ大空へと送ってくれた。
従兄弟の一人が、「近所なので僧侶を送って一緒に帰る」と席を立つと、他の列席者も皆後に続いた。
静まり返ったホールの中で雄介は、給茶機からコップにお茶を注いだ。溢れそうになるお茶に、不覚にも涙が溢れそうになった。
もっと頻繁に母のもとを訪ねていればよかった。せめて入所してからでも遅くはなかっただろうに。自分の生活を優先して、母を思いやる心をどこかに置き忘れていたと、今更ながら自分の不実さを恨んだ。
葬儀の段取りに忙殺されて忘れていた涙が溢れて来た。
お茶が足下に零れてズボンの裾が濡れた。コップが潰れるほど握りしめている自分に苦笑して、帰り支度を始めた愛理達の元へと急いだ。