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「てっぺんテンコ! 最終回」

てっぺんテンコ! 最終回

 彼女の携帯に何度かけても呼び出し音だけで、つながることはなかった。携帯の番号から住所を知ることは、今ならたやすくできるはずだ。だが、そこまでする気力はすでに失っていた。予想通り、その次の日、次の次の日……と一週間経っても、彼女からは電話はもちろんのこと、メールすら来ることはなかった。
 そしてそのまま悶々とした気持ちのまま、仕事が繁忙期に入り、またも二カ月があっという間に過ぎ去った。仕事に没入することで、テンコという頭の中の大きな存在を忘れようと、やみくもに忙しく働き続けた。
あの東京タワーで二人で過ごした後の暑い初秋の夜も、感覚を失ったまま過ぎ去り、すぐに朝晩に寒さを感じるようになってきた。通りの落ち葉を見るようになると、テンコには、またいつか会えるさ……という程度のあきらめの気持ちになってきた。
 十一月四日、自分の雑誌の校了を迎えていた僕は、その夜自宅に帰ると、郵便受けに、少し厚い封書を見つけた。差出人は、ある出版社の編集局と書かれていた。厚さから、単行本のようであった。ああ、また雑誌で紹介してくれ、という謹呈本だろうと、テーブルに投げやった。しかし、もう一度出版社の名前を確認すると、僕は瞬間的に背中に凄い刺激を感じ、すぐにその封書を取り上げ、開け始めた。
 その中味は、テンコの単行本だった。タイトルは『Love Fun ROCK!』。パラパラとページをめくる。何人もの外国の有名ミュージシャンのインタビューや対談をまとめ上げたものだった。いきなりのテンコからのプレゼントに僕は、驚ききって、その本を読まずに、そっとテーブルに置いた。すぐに赤ワインを取り出してがぶ飲みし、ベッドに入った。それは彼女そのものに、再び巡り合えた喜びであった。それを大切に取っておきたかった。その時は――。

 翌日、僕は午後から休みを取り、テンコの単行本を発売した出版社に電話を入れた。中年と思われる声の女性の担当者は、テンコから一カ月前に、単行本の発送リストに、僕の名前を入れるように頼まれたという。
「でも、石沼さんは……」その小泉と名乗った女性担当者が口ごもった。
「えっ?なんですか?」
「いえいえ、いいんです。私はあなたの名前をリストに入れるように頼まれただけです。ただ、それだけです」
そう言い切って、いきなり電話を切ってしまった。
忘れようとしていた想いが沸々と湧き上がってきた。僕も一応、雑誌の編集家業。テンコの単行本の出版社に何か理由をつけて訪ねることはできるだろう。そんな考えで頭の中がいっぱいになった。
 さっそく、翌日、後輩の編集者に頼み、『Love Fun ROCK!』を紹介したい、という話を発行元の出版社にさせ、直接訪ねる約束をさせた。その行動のスピードは、かつてないほどの速さだった。周りの同僚も、今までの落ち込み、しょぼくれた姿から、いきなり活気付いた僕の姿に驚いていた。

 次の日、僕はアポイントを取った時間のかなり前に出版社Sに着いていた。まだ三十分も前である。電話での小泉という担当編集者が、口ごもったのをここでも思い出し、妙に不安な気持ちになってきた。
 受け付けを済ませ、白い壁に覆われただだっ広いロビーで待つ。エレベーターから担当と思われる女性が降りてきた。電話の対応から思い描いていたほど歳ではなく、かわいいい感じの比較的若い小柄な女性であった。しかも、なぜか僕を見つけて、微笑みながら近づいてきた。
「あ、来ましたね。菊地さんでしょ!」電話でのぶっきらぼうな感じとは違っていた。
 名前を偽って来たのに、本名を言われてしまい、面喰い、緊張が高まる。
「典子さんに、必ず菊地さんという人が来る、と言われていたんです。すぐ判りましたよ。でも、思っていたより遅かったですね。そして、会ったら、これを渡してくれと……いきなりすみません。菊地さんですよね?」
僕は黙って頷いた。
「これ、受け取ってください」と水色の封筒を差し出した。それには、見慣れた丸文字で、“菊地くんへ”と書いてあった。
僕はそれを受け取ろうと手を伸ばしながら、「あの……彼女は」とたどたどしく口に出した。
「この手紙を受け取ってから、連絡が取れないの。とにかく渡せてよかった。本当に来るのか心配だったの。預かったままというのも……ね。これで私の役目も終わったわ――」と言ってから、小泉さんはまた微笑んだ。
「ぜひ、彼女の単行本を紹介してくださいね! 素敵な内容の本なんです。約束ですよ!」そう言って、彼女は忙しそうにきびすを返し、再びエレベーターに駆け込むように僕の前から姿を消した。僕は、色々と聞きたいことを用意していたのだが、何ひとつ尋ねることができないまま、広いロビーに呆然と立ち尽くしていた。

 僕の左手には半ば無理矢理渡された空色の封筒が握らされていた。丸文字で、“菊地くんへ”と書かれた封書――。
 その鮮やかなブルーは、東京タワーから二人で見た、鮮やかな空の色に似ていた。封筒を両手で挟み込むと、ほの暖かい感覚が僕を襲う。しばらく太陽光が差し込むロビーに、このままいたい気持ちにもなったが、ちょうどランチタイムのせいか、行き交う人が多くなってきて、視線を意識するようになり、封筒をコットンパンツの尻のポケットに入れ、その場を離れた。とにかく静かな場所に行きたいと思っていた。

 訪ねた出版社の近くに位置する、神保町界隈には、古くからあるレトロな店がたくさんある。テンコと行った、“さぼうる”もそのひとつである。その中で昔から知っていて、一人で静かに過ごせる喫茶店に向かった。ちょうど神保町の交差点から水道橋に向かう白山通りの途中に位置する店だ。平日の昼下がりにもかかわらず、店内にはけっこうな客がいた。奥のほうの、薄暗く居心地の良いボックス席に収まり、ブレンドコーヒーを頼む。いつまでも変らない深めの味。そしてポケットに押し込んだ、空色の封筒を取り出し、テーブルの上にそっと置いた。しばらくその綺麗な色を見ては中身を想像した。
 コーヒーが運ばれてきた。なんとも香ばしい香りが鼻をつく。一口飲んで、やっぱりここのは美味しいな、と思いながら、封筒を手で切り、一枚の便箋を取り出した。

 菊地君。私は、もう生きていないかもしれない。
君に久しぶりに会えて、この本はできたんだよ。
本当に、ありがとう!
あまりに達成感があって、もう思い残すことはない。
君のおかげで、少しでも長く生きて、生きて本を残すことができた。
もう一度会いたい。でも、会ったら、もっと大きな苦しみになりそう。
だから、ここでさよならします。
Bye! Bye! 長い間、ずっとずっと想っていました。
ありがとう。  
               Tenco

 僕はテンコからの手紙を読んで、不思議と胸騒ぎが収まったと同時に、急激に顔から生気が失われて行くのを感じた。まさか、そんなこと……という思考と共にあらゆる考えが頭の中でぐちゃぐちゃとなり、瞬時にはじけ飛んだ――。

 その時の手紙を読んでからの記憶は失われ、今では本当に思い出すことはできない。僕も、テンコのところへ行こうか……と本気で思ったことだけは覚えている。だが、僕にはそんな勇気も行動力もない。そう、僕は、このままずるずると生きていくしかないことは判っている。
 僕はずっと鞄に入れ持ち歩いていた『Love Fun ROCK!』を取り出し、どこを読むわけでもなくペラペラとページをめくった。あるページで僕の目は止まり、凍りついた。僕の大好きな、偉大な三大ギタリストのページだった。そのギタリストの写真に、追加したように、落書きが施されていた。よくよく目を凝らして見ると。メガネが書き込まれていて、なんとなく僕の顔のように見える。端っこに、「君らしく生きるんだゾ!」という見慣れた丸文字が吹き出しのように書かれていた。
 僕はそれを見るなり、テンコの本を胸に押し付け突っ伏した。なぜか涙は出なかった。ただただ、丸文字を書くテンコの細い指先が、脳裏に浮かんでは消えていった……。

 僕はテンコのように、何かをやり遂げることがあるのだろうか? ふと考えると落ち込んでくる。しかし、彼女との二度目の別れは、僕に大きなものを与えてくれた気がする。僕はすぐに死ぬ訳にはいかないのだ。それがテンコからのメッセージ。そう思ったら、わずかだけ、気持ちが楽になってきた……。たぶん、テンコはすでにこの世にはいないのだろう。僕は、彼女のいない世界で生きていかなければ、ならない。一人で……。
 しばらく、窓から見える遠くの青空の断片をぼんやりと眺めていた。その視界に、飛行機雲がグングン伸び始め、先へ進んでいく。僕はその動きを目で追った。そして、視界から、飛行機が消えると、いきなり喪失感に駆られ、いきなり左目から涙がこぼれ落ちた。その時、僕は、テンコから生き続ける使命をもらったことに気付いた。これからも、命がある限り、彼女の分まで懸命に生きていかなければならない。そう思うと、いきなり、涙が溢れて、とまらなくなり、まもなく大部分の視界を失った。

 数日後、意を決しテンコの本を読むことにした。夕食を食べた後に酒も飲まずに、じっくりゆっくり、一晩かけて読みつくした。そこには天真爛漫な性格を活かして、好きな国内外のミュージシャンへ体当たりのインタビューをしている彼女の姿があった。文と文の行間からも、彼女の若い頃の明るい表情と姿が脳裏に浮かんでは、消えていく。テンコがいろんな辛い事を経て、浮き沈みがあり、様々なことがあったにせよ、それを乗り越えて生きてきたにもかかわらず、なぜ今になって、生き急ぐ必要があったのか……僕には判らない。
 だが、あの時僕に会ったことが、あるきっかけとなった事は、推測できた。

『フレディがあんなに早く亡くなってしまい、夢にまでみた大好きなクイーンに会えることはできませんでした。
でも、でも、懐かしい、本当に懐かしいSさんに再会できたことを神様に感謝します。Kさんとの再会で、この本を仕上げることができたんです。そして、皆さん、最後まで読んでくれたことに感謝します。Bye! また会えたら……。』

 あとがきには、こう書かれていた。いかにもテンコらしい、まさに彼女の心の言葉。その後、彼女が取ったと思われる行動――。それを考えると、またもや涙がこぼれ落ちた。しかし、これが現実なのだ。きちっと受け止めなければならない。そう、心に思いながらも、すぐに受け入れることができない、自分が情けない。 
 かつてない沈み込んだ気持ちに整理がつかない日々が、『Love Fun ROCK!』を読みきって以来、ずっと続いていた。僕は、彼女に“しっかり、自分らしく生きてほしい!”という使命をもらっていたにもかかわらず……。
 毎晩僕はテンコの単行本のややサイケ調の表紙を見つめて、ほとんど溜息まじりの、つらい日々を過ごしていた。この本は、僕に“生”と“痛み”を与えてくれた。そして、その表紙を見るたびに、大きな欠落感を感じる。精神的にアンバランスな感覚が漂う部屋での時間は、時が過ぎ去るのもゆっくり過ぎて、何も感じられないほどだった……。

 そして日々は過ぎ去る。きっと仕事もしていたのだろう。にもかかわらず、日々の細かい行動の記憶は、その時々で、断片的となっていた。いつもならハリウッド映画ばりのスケールの大きな夢をよく見ていた。そんな夢さえ見ることを拒絶しているかのように見なくなった。ただただ、自分がトーキョーという空間に漂っていた。

           *****

 後日届いた最後の手紙を読む時が来た。ピンクの封筒に丁寧にペーパーナイフを差し込み、封を開ける。テンコからの最後の手紙には、あの時の輝いていた日々のことが書かれていた。
そして僕のことが好きだったと……なぜ、あの時すれちがってしまったのか。文章はシンプルな作りで、彼女らしさが伝わってくる。最後には、一度だけでも一緒にコンサートに行けたら、最高だったのに……と書かれ、高校生の時に熱く語ってくれた、当時彼女が行った「クイーン」のコンサートの半券が添えされていた。
 最後の言葉、「君らしく、これからも、やりたいことをやっていってください。それが出来る君がうらやましい。私は、もうすべて終えました。さようなら……Bye!」その最後の“e!”の字がうっすらと滲んでいた。こめかみが痛み出し、雫がひとつ、そのぼやけた点の部分に落ちて重なっていった。さらに“e!”が滲み、ぼんやりと形を崩していった。僕は、最後に彼女と行った天空の場所を思い出しながら、恥ずかしさも忘れ、大粒の涙を零し、机に突っ伏した――。

           *****

 三年後、僕はひとりぼっちで池袋の名画座にいた。最近、時間つぶしと言うわけではないが、元々好きだった映画を深夜の劇場でよく観るようになっていた。今日の作品は、昭和三十年代に起きた現金強奪事件をモチーフにした純粋なラブストーリー。うまく時代背景と感情を描いた作品だ。少女の揺れ動く気持ちとラストの一編の詩。それが自分の幼少期と重なって感動を呼ぶ。ろうろうと歌われる女性ヴォーカルにより導かれるエンドロール。それを無意識に見つめる。その美術担当の名前欄にいきなり知っている名前があった。石沼典子。これが関わった唯一の作品。また出会えた……。そう思うと、堪え切れずに、一気に熱い雫が頬を伝った。そして、すぐに彼女の名前が消えていく。もう二度とテンコに会うことはできない。僕は、生きて約束も果たしていない。
 あの時に戻れたら……。できない事は判っている。僕は俯いたまま嗚咽をこらえた。これからも、生きていくために……。

*****

 その一年後、僕は、あの夜聞いたテンコの長い長い物語を、文章化し始めていた――。まだ、それは完成していない。
                                          
                             <了>

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