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「てっぺんテンコ! 第4回」

てっぺんテンコ! 第4回
 
 次の週の頭から週末の間は、忙しくしているにもかかわらず、何となく夢の中といった感覚のまま、日々を暮らした。ちゃんと仕事はしていたというより、普通よりはりきって、嬉々として仕事に取り組んでいたような気もする。すでに多くの取材は終盤に向かい、それを文章化する、あるいはライターから原稿を入手する段階まできていた。だが、それなりにしっかりとやっていたのだろう。
 周りからは「菊地さん、はりきっていますね。最近、何かいいことありましたか?」と言われるほどであった。
 そんな調子で、数日を過ごし、金曜日には確認のメールをテンコに入れた。今度はすぐに返信が来た。そこには、
『明日楽しみにしています。まるで高校の時みたい。遅れないでね。Bye!』と書かれていた。そのパソコン上の文字を見るだけで、ドキドキしてしまう。その晩も、早めに二杯ほどモルトウイスキーのカスクを飲み、その後は最近お気に入りの若手のジャズトリオと共に、ボーッとしながら夜中まで過ごした。
 
 快晴の土曜日。十時四十分。僕はJR御茶ノ水駅の改札を出たあたりで、緊張感を漂わせながら立ち尽くしていた。相変わらず、この駅にも降り立つ人が多い。土地柄、学生のような年代が多く、楽器の街らしく、いかにもバンドをやっている風体の若者もけっこういる。深い青色をした秋の空が広がり、所々に小さな雲が暢気そうにぽっかりと浮かんでいた。この街も、僕が東京に来た時から、それなりに変化した。特に明治大学大学院の巨大な建物が、その象徴のひとつである。だが、全体的な雰囲気はさほど変っていない。駅前のスクランブル交差点のあたりも、あまり変わっていないような気がする。しかし、昔ながらの楽器店は少しずつ消えてきていて、その他の個性のない街並と変らないようになりつつあるのも事実だ。
 街並みを見て感慨に耽りながら、しばらくして腕時計を見ると、すでに時間は十時五十八分を差していた。僕はクルリと体を改札の方向に向ける。とその瞬間、階段を明るい紫色のジャケットを着た女性が駆け上がってきた。髪の毛はやはりトレードマークともいえるオカッパ頭である。“あっ、テンコだ”と僕は認識した。
 彼女は軽快に階段を上がりきると、すぐにこちらを見た。そして笑顔になって「菊地くん!」と大声で呼びながら、手を振った。なんか少しばかり気恥ずかしい気もするが、僕も小さく手を振ってそれに答えた。彼女は軽い身のこなしで、素早く改札を抜けると。僕の前に立った。まるで、あの高校時代の田舎の駅の再現のようだ。そして、僕は笑った。あの時のように――。
テンコは僕の顔を見た。彼女の茶色の瞳が目に入る。
「今日は誘ってくれてありがとう! さあ、デート、デート。この歳で、菊地君とは初めてのデートだね。まず何をする? どこに行く?」
とても三十歳台後半とは思えないほどのあどけない表情で、僕の返事を伺う。
「やっぱり、御茶ノ水といえば、中古レコードか、古本屋。どっちがいい?」
「もちろん、レコードかな。もう何年も聴いていないなあ。でも、今も何枚かは大切に持っているよ。CDなんかより断然いいよね。ジャケットも三十センチでなきゃ。昔大好きだったけど、買えなかったものもいっぱいある。昔欲しかったレコード、見つけたいな。菊地くんレコード屋、詳しいの?」
 一気にまくし立てられてしまった。
「ああ、仕事が仕事だし、今でも完全なコレクターだからね。さあ、行こうか!」
 この言葉を聞いたのかのどうかも判らないまま彼女は、すでにスクランブル交差点に向かっていた。あっさり置き去りになってしまった形となった僕は、テンコの姿をすぐに追いかける。彼女は仕事明けの早朝の電車で見た女性の姿より、あきらかにスリムになっていた。足は細く長い。それを見ると、高校時代に陸上をやっていたスラッとした姿を思い出す。横に並ぶ。
「たぶんテンコが探しているレコードが、いっぱいある店は何軒か知っているよ」
「えっ、ほんと……」
「さてさて、ご案内しましょう。お嬢様」
そう僕が言うと、テンコは大きく笑って頷いた。
 僕らは明治大学の坂を下っていく。そして、神保町の交差点の手前を右に曲がると、小さな中古レコード屋が点在している。その中でも、七十、八十年代のポップスやロックを豊富に取り揃えている店に入っていく。ここは書店やカフェが一緒になっている中古レコード屋としては、ちょっとお洒落な空間だ。マニア向けといった店ではないが、なかなか品揃えは豊富である。彼女は僕の動きに寄り添って、店内に入って行った。
「エッ、ここにレコードが売っているの?」と言った。すぐに「あっ、あっちにある!」と、奥にあるレコードコーナーを見つけて小走りに向かっていった。僕は、ゆっくりと彼女の姿を追う。
 広い空間にあるレコードコーナーは、僕としてもとても愛しいものがいっぱい存在する。すぐにテンコはレコード棚に向かい、レコード漁りをしている。しかし、僕は自らの欲望を抑えて、彼女の後ろ姿を見つめていた。そして、一枚一枚と移動しながらレコード取り出している。移動した棚で三枚ほど取り出したところで、彼女は振り返った。
「菊地くん、何しているの? いっぱい欲しいものがありそう。君も見たらどうなの? そんなところに突っ立っていなくて!」
辺りを気にしないほど大きな声で、僕に言う。僕はむずかゆい気分になって、軽くだけ右手を上げた。そしてあまり大きくない声でこう言った。
「ああ、僕はよくここに来ているから。ゆっくりと見るといいよ。僕も欲しいものを見つけ出すよ」それを聞くと、彼女は安心したのか、またレコード棚に向かった。洋楽の“K、L、M、N……”。そしてさらに右に移動する。“O、P”そして、しばらくして、“Q”へ行った所で、動きが止まった。「QUEEN」の棚を探し出したのだ。
「あった、セカンドアルバム! ホワイト&ブラックサイド。ポップになったサードアルバムより、ハードで、コンセプトがある、このアルバムが好き。あの時は、お兄ちゃんが持っていて、私は買ってなかったの!」まったく周りを気にしてないような大きな独り言を言いながら、テンコはジャケットを持って、僕のところに掛けて来た。
「嬉しい! これ持っていて」
 それだけを言うと、またレコード棚に戻っていった。今度はエアロスミスの棚だ。やれやれ、一軒目でこれか……。僕は目的地まで、けっこう時間がかかることを覚悟した。
 彼女は、さらにそこでもう一枚の懐かしいレコードを捜し出した。『エンジェル』である。ロックの貴公子バンドども呼ばれた、日本で人気を呼んだ美形揃いのハードロックバンドだ。一回だけ来日して、テンコが中学時代に、日本のバンド『クリエイション』と共に、そうとう騒いでいたバンドだ。アニメ調のイラストによるシンボルマークが描かれたジャケットは、僕も印象に残っている。また彼女は近づいてきて「ほら、こんなレコードも……」と言う。僕も彼女とそのジャケットを見つめて、あまりの懐かしさと、彼女が目の前にいることで、学生時代に戻ってように歳甲斐もなく、妙に気持ちはしゃいでしまっていた。
 結局、そのレコード店では一時間半ほどいて、テンコは八枚ものレコードを買い、本当に嬉しそうに抱えている。もう一軒、邦楽がたくさんある中古レコード屋にも行くスケジュールを立てていたが、ひとまずこれで充分だろうと判断した。すでに昼も回って、一時近くなってしまっていた。
 僕たちは書泉の前を神保町の交差点に向かって歩いていた。
「どう、お腹すいた?」僕は元気よく歩くテンコに訪ねた。
「うん、うん。ランチどうする?」
「僕が決めていいかな?」
真横に立ち彼女の方を見ると、テンコはニコリとして、頷いた。大袈裟な声で僕は言う。
「じゃあ、ナポリタン!」
もう一度彼女の表情を確かめる。テンコは嬉しそうに、
「うん、いい考え。いいよ、それ!」と答える。
 僕は、交差点の手前に左に入り、路地を入って行って、古めかしい喫茶店に入っていく。名前は“さぼうる”。あまりに有名な神保町の老舗だ。
 学生時代からまったくと言っていいほど変らない裏通りの、その店も、変っていない。ちょうど穴蔵のように薄暗い店内は、週末にもかかわらず、たくさんの人が入っている。僕の注文は、もちろんナポリタンセット。
「私も、同じで」彼女は、ほぼ僕の注文と同じように答えた。
 そして引き続き「ここの、量が多いんだよね。でも、お腹がペコペコだから、大丈夫そう」と言い、僕を見た。
「そうそう、三百グラムもあるらしいよ。食べきれる?」
彼女はすっと、幼い笑い顔になった。
「もちろん、大丈夫よ。昔よりずっと食べるようになったの。だから、こんなに……」そう言って俯いた。
「だから、大丈夫。美味しいもの大好き!」と、子供のように上目使いで僕を見た。
 久しぶりのナポリタンは懐かしい濃いめの味がして、思っていたよりずっと美味しかった。僕としては、やや多目の量だったが、ゆっくりと食べていった。途中でたっぷりと粉チーズをふる。これが、ここのナポリタンの食べ方だと、僕は勝手に決めていた。テンコは僕よりハイペースで食べている。美しいオレンジ色をした麺は、しばらくして皿からすっかりと消え去った。そして、彼女がフォークを置くと、
「ああ、美味しかった。なんか一気に全部食べちゃったよ。こんな懐かしい味のするナポリなんて、何年ぶりかなあ」そこで一度言葉を切る。そして僕を見る。
「菊地くんは?」と尋ねてくる。僕はまだ食べ終えていなかったが、
「ああ、僕もほんとうにしばらくぶり。どれくらいかな? でもナポリタンって、いつ食べても、妙に美味しいよね」と言って、フォークを動かして、最後のひと巻きを食べ終えた。
 “さぼうる”では、昔の懐かしい話しをたくさんした。様々な行事、友人、出来事……。意外にもけっこう覚えているものだ。彼女は、思った以上に饒舌になっていた。というより、滝が降り注ぐように、しゃべり続けた。ほとんどが、たいした意味のあるものではなかったが、本当は彼女のその後と、今を知りたかった。しかし、彼女の会話には“僕の知らない過去”はなかった。
 “さぼうる”には小一時間ほどいた。もう二時になろうとしている。にもかかわらず、ひっきりなしにお客が入ってくる。
「さあ、そろそろ行こうか? 武道館に行きたいんだ」喋り続ける彼女を遮る。彼女は僕の言葉にキョトンとして、大きな目はさらに大きくなった。だが、それ以上何も言わずに、ゆっくりと微笑んで頷いた。
 薄暗い店内から外に出る。相変わらず眩しいくらいのいいお天気だ。再び二人で神保町の交差点に向かって歩き始めた。そして、交差点を通り越し、今日のデートの最後の目的地である九段下の方に、ゆっくりと歩いていく。それまで、買ったレコードのことを喋り続けていたテンコは、次第に言葉少なくなり、いつしか沈黙した。
 前を行く彼女の後姿に、さっきまでの勢いが消えていた。なんとなくうなだれた感じで、生気なく歩いているようにも思える。その姿を見て、僕はなんとなく声をかけられずにいた。派手に見える服装にあまりに相反した動きをじっと見つめながら、彼女を追い越して先導することにした。前に出ると振り返らずに、ゆっくりと歩いていくと、次第に鮮やかな緑が見えてくる。  そして地下鉄の九段下の駅の出入り口に着いた。
 そこで立ち止まり、急に振り返る。テンコはちょっとびっくりした表情で、ぎこちない微笑を返した。僕はとっさに左手を差し出して、即した。彼女は無意識に手を出し、僕の手を握った。その手は、こんな陽気にもかかわらず、ひんやり冷たかった。僕は少し力を入れて、握り返しニコリとした表情をした。彼女はあきらめたように、コクリと頷く。僕は再び、彼女の手を引いて、上り坂を上がって行く。左にお堀が見えてくる。もう少しで、目的の場所だ。彼女の手が少しずつ暖かくなっていくのが判った。そして、ある所で左に歩みをとった。
 そのまま緩い坂を上がって行く。大きな門が見えてきた。門をくぐる手前で、一度だけテンコの顔を見た。彼女はなんとなく微妙で複雑な表情をしていた。しかし躊躇せずに、彼女の手をひっぱって行くと、あっという間に武道館の正面に着いていた。大きな『日本武道館』の看板が見える。いきなり、彼女が僕の手を振り切って、正面入り口のまん前に立ち尽くした。急に立場が逆転した。彼女は正面をまっすぐ見つめる。僕は呆気にとられて、彼女の横顔を見る。大きな目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。そのまま、瞬きもせずに、ぐっと上の看板を見つめている。
 どれくらい経ったのだろう。彼女は左手で涙の跡をぬぐって、恥ずかしそうに僕を見て、ぎこちなく微笑んだ。何かさっきの神妙な顔つきとうって変わって、穏やかな表情だった。僕は安心した。と思ったと同時に、テンコが僕に駆け寄ってきて、僕の手を取る。そして、僕にしなだれかかるようになり、
「ありがとう。ここに来れてほんとうによかった」と耳元で囁く。
 僕は彼女の体温を感じながら、大きな目を見つめた。
「今日は、ここまでにしようかな」とテンコが再び言う。
まだ三時過ぎである。あまりに驚いた僕の顔を見ながら、テンコはしっかりとした口調で、こう言い切った。
「もう、これで充分。楽しいこといっぱいしたよ」再び僕の腕をしっかりと掴んだ。
「今度、お酒でも飲みながら、私の話を聞いてくれる?」茶色の瞳が、僕の回答を待っている。
僕がゆっくりと頷くと、彼女の顔はみるみる明るくなっていった。大きな瞳は瞳孔が開いているように、潤んできている。
「嬉しい。じゃあ、また連絡するね。今日は、ここでいいわ。一人で帰れるから」そう言うと同時に、腕をはずし、僕からレコードを奪い取るようにして、来た方向に素早く走っていく。
「えっ?」僕は、呆然としながら立ち尽くす。彼女はすでに、門の所まで、移動していた。そこで立ち止まり、振り返ると大きく手を上げて振る。そして「あ・り・が・と・う!」と大声で言った。
 僕はその声になんとか反応して、またもぎこちなく右手を上げて、ゆっくりと動かす。彼女は、一度だけピョンと飛び跳ね、すぐに門をくぐり抜けて視界から消え去った。そのシーンはあの高校時代の別れのシーンをフラッシュバックさせ、まるでスローモーションのように目に残った。僕は悪い夢でもみているかのように、その場に立ち尽くしていた。あまりに強い太陽が、僕を照らし出していた。〈また会えなくなる!〉。急激に、不安の雲が心の中で広がってくる。すぐに追い駆けようと思ったが、足が動かず、行動に移すことはできなかった。そのまま、不安いっぱいの中で、立ち尽くした。もう一度会えるんだろうか。それとも――。
 すぐに追っかければよかったと思いを巡らせながら、しばらく僕はそこに留まった。もう一度『日本武道館』の看板を見つめた。僕にもここにはいろんな想い出があった。いくつもの外国人アーティストのライヴ、そして今となっては気軽にライヴを行う日本人ミュージシャンたちをここで観た。そのほとんどが女性と一緒だった。その時々に付き合っていた女性たち、あるいは女友達とであった。だが、最近は大きなライヴはドームクラスに移り、小さいライヴハウスもたくさんでき、いつも身近に様々なライヴが観られるようになった。そのため、往年のロックの殿堂であった武道館にはめったに足を運ばなくなっていた。
 久しぶりに武道館の外観をまじまじと見てみると、やはり昔の感覚より小さいな、と思える。最も最近ここで見たのは“エリック・クラプトン”だろうか。その時は、立て続けにドームクラスでのライヴを立て続けに見ていた後だったので、やはり小さいな……と感じてはみたものの、ライヴはこれくらいがちょうどいいのかもしれない、と思ったのも事実だ。僕は何組ものミュージシャンによるライヴを思い出し、同時に何人かの女性を心の中で思い浮かべながら、そのまま長い間、武道館を見つめていた。
 
 テンコと武道館に行き、突然の別れの時から、僕はさらに上の空の日々を過ごした。締め切りが、ひと段落したせいもあったかもしれない。ちょうど、そんな状態でも許される時期だった。彼女に再び連絡するべきか、それとも待つべきか……。こう考えながら数日間が過ぎ去った。その間にやったことは、ほとんどといって覚えていないし、本能のままに動いていたような気さえする。だが、記憶はほとんど抜け落ちていて、思い出せる出来事は、本当にわずかである。もちろんテンコからは、何の音沙汰もない。だが、僕から連絡を入れるのは、なぜかためらっていた。
 あの日から四日目の夜、慣習的に僕はメールをチェックした。次々にメールが受信されていく。その件名に“この前は……”という文字が目に入った。僕は、素早くマウスを動かしその項目に移動させた。このメールの差出人を確認する。間違いなくテンコからのものだった。もう一度送信先をチェックして、メールを開いた。
そこには、まずこう書かれていた――
 
 菊地くん。この前はゴメンね。久しぶりに会ったのに。
 
 その後に一行空白があり、
 
 君ともう一度会いたい。色んなことを話したいな。
そして、私の話を聞いてほしい。
 もしよかったら、また連絡をくださいね。待っています。
                  Tencoより Bye!
 
 これを読み終えると、嬉しい気持ちと共に、複雑な気持ちになった。僕も話したい事はたくさんある。でも、彼女の話したいことには、何か重い意味があるような気がしてならない。そしてあの涙は? 果たして彼女の話を聞いてしまっていいものなのだろうか? そんな不安が纏わりついた。また心の中に、引っ掛かりが浮かび上がっていった。
 返信をどう入れるか。再び頭の中では、あまりに多くのことが渦巻いている。気持ちが燻ぶる。テンコへの想い。そして彼女が僕たちの前から姿を消していた期間のこと。この前の武道館前での涙。はたして、僕に何を伝えたいのか……。不安、期待、興味、そして恐怖……。その中の“興味”が、最終的に気持ちを動かした。返事を打つ。
 
 テンコさん、この前はありがとう。
次の土曜の夜、お酒でも飲みながら、ゆっくり話しませんか?
僕も君に伝えたいことがあります。
                     菊地
 
 簡潔にこれだけを素早く打ち込み、メールを送信する。返事は明らかだ。僕は返信を待つことなく、パソコンの電源を落とした。今度会った時は、ケータイのメールアドレスも、聞いておこう、と思いついた。その方が、やり取りも便利だろう。
 その夜、僕は久しぶりに六十度近くもあるモルトウイスキーのカスクを四杯ほどストレートで飲んで、知らないうちに、ベッドに入り込んでいた。
 
 何かを一生懸命に追い駆け続ける夢を見た。
――何度も何度も同じ風景の中、懐かしい女性の後姿を追い駆ける……。もう一歩で手が届きそうになったら、その姿が忽然と消え去る。そして、再び同じスタート地点に自分が立っている……。これが何度も何度も繰り返される。十回ほど続いただろうか、再び手を伸ばすと、女性は立ち止まり、振り向いた。それは血だらけで崩れかけた顔。テンコの顔だった。僕は慌てて、逆方向に逃げる。彼女は“待てっ!”と信じられないほど低い男のような声で叫びながら、追い駆けてくる。まっすぐで両脇に隠れる場所などない。道はその先で途切れているが、行くしかない。僕の体はフワッと一瞬だけ宙を舞い、そして真っ暗な穴に落ちていく――。
そこで、衝撃を受けたのか判らないが、何かに当たった感覚がして、目が覚めた。
 
 またもや体中が汗でビッショリとなっていた。何がなんだか判らないほど、頭が混乱している。ふと枕元のデジタル時計が目に入る。五時二十五分。その時間を読み取ることで、徐々に冷静になっていった。緑のカーテンの向こう側は、ほんの少しだけ明るさを取り戻していた。しばらく穴に落ちていく感覚が残っていて、そのまま硬直した状態だった。“ふぅ”と大きな深呼吸が無意識に出ると、ようやく血液が体中に巡りはじめた。
 ゆっくりと起き上がる。何となく平衡感覚が失われているようで、クラクラしている。なんとか、壁を伝いながらキッチンへ行って、グラスに冷蔵庫の中にあるミネラルウォーターを注ぐ。一気にそれを飲む。喉が相当渇いていたのか、ひんやりした感覚が、体中に行き渡った。すぐ先に点滅しているランプがある。パソコンのディスプレイを切るのを忘れていたのだ。グラスを置き、そのスイッチを切ろうとした瞬間に、ビリッと指先に刺激が走る。僕は瞬時に手を引き、薄暗い空間で目を細めて指先を見る。そこは、何となく画面が赤く輝いているよう見えた。いったい何が? と不思議に思いながら、もう一度スイッチを切ろうとした瞬間に、点滅は消えた。まるで夢を見ているようだった。いきなり点滅が消えたことを、さほど気にも止めずに、再び壁を伝いベッドルーム戻り、夢遊病者のようにシャツを着替え、再びにベッドに入る。もっと楽しいテンコの夢を見るために……。
 
 結局、何の夢も見ずに、七時過ぎに目が覚めた。内心ホッとした。もし、夢に再び血だらけのテンコが出てきたら、最悪の気分となっただろう。しかも今日は仕事があり、早めに取材に出なければならない。だから、それでよかったのだ。
 それでも、起きたらすぐにパソコンに向かうと、確かにディスプレイは切れている。電源を入れ、メールをチェックする。受信ホルダーには何も入ってこなかった。それを確認すると、パソコンを落とし、仕事の準備をしながらコーヒーを飲み、朝のテレビ番組で、いつものように今日の運勢を確認して、ちょっとだけ落胆して、秋晴れの外に出て行った。(第5回に続く)

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