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「てっぺんテンコ! 第6回」

てっぺんテンコ 第6回
 
 三田の駅にたどり着いたのは十一時十分。約束の時間の二十分も前だった。僕は仕事柄、取材に行く時々に、いろんなところで待ち合わせをするが、三田駅に降りた記憶はほとんどない。というより、降り立ったのは、これで二回目くらいだろう。約束の五番出口に向かう。その出口の先には、ほんとうに素晴らしい青空が天空いっぱいに広がっていた。それを楽しみながら階段を上がり、出口のところでテンコを待つことにした。
 眼の前に東京タワーが聳え立っている。初めてここに来たのは中学生の時。僕は新潟の田舎の出身だったので、修学旅行は東京だった。今でもおぼろげに、この東京タワーに昇ったこと、大展望台から無数の建物を眺めたことを覚えている。そしてみやげ屋で、小さな東京タワーの置物を買ったことが記憶に残っている。そして、何ともインパクトのある蝋人形館……たぶんあの頃はテンコをまったく意識していなかったと思う。それから卒業までの間に、僕の人生の中でも大きな出来事がいろいろあった。中学三年の後半の受験の時に、僕は病気にかかっていて、毎日のように病院に行くはめになった。静脈注射を、打ち続け、顔にも黒い醜い大きなシミができていた。それと時を同じくして、そんなことを気にしないヒトミと付き合うようになり、テンコとも仲良くなっていった。
 あまりに懐かしい感覚が全身を覆い、まるで二十年前にタイムスリップしたかのようであった。昭和のあの時代、目まぐるしい動きがあり、世界中でたくさんの出来事があった。大阪万博、アポロ宇宙船、札幌オリンピック、オイルショック、そして洋楽ロックの全盛時代。あのNHKでさえ、洋楽ロックの番組があり、それがテンコとよく話すようになるきっかけだった。今、目の前の東京タワーの目の前に立っていると、当時の若かった昭和の時代に戻って彼女を待っている気がしてくる。特にここから見えるタワーの周辺は“今”を象徴しているような、宣伝の看板やロゴなどはほとんどない。それが過去への感覚に、いっそうの真実味を与えてくれていた。そう思うと、東京タワーの赤色がなんとなく煤けてきて、全体的にセピア調に視覚が染まっていく。僕は、今がどの時代なのか、次第に判らなくなってきた。
「菊地くん!」呼び声がこだました。現実が急激に戻り、時の感覚が戻った。一度目をしっかりと閉じ、目を開けてみる。そこには、今の東京タワーが堂々と立ち尽くしていた。
 テンコは目の前に立っていた。その姿は、中学時代のそのもの……と言いたいところだが、そうではなく、今の現実のテンコの姿がそこにあった。きっと、僕はまじまじと見ていたのだろう。
「何? どうしたの? 早く行こうよ、東京タワー。ほら、あそこだよ!」テンコは快活にそう言い切ると、僕の腕を思いっきり引っ張った。ぐいぐい引っ張られた僕は、呆気に取られながら、彼女の手のぬくもりを喜び、身を任せた。
「さあ、着いた!」
ものの五分もしないうちに、僕らは東京タワーの下まで来ていた。
「ほらっ」とテンコは言って、僕たちはその足の部分から見上げる形となった。僕は、無意識にタワーのてっぺんを指差す。赤く塗られた鉄骨の組み合わせが、なかなか面白く、僕はしっかりと見続ける。また腕を引っ張られる。
「さあ、早く行こう、展望台!」
また、テンコが大きな声を出した。
 少しだけエレベーターを待って意外なほど多くの客と大展望台に上がる。
久しぶりに東京タワーから、見渡す東京の全貌は、懐かしくもあり、かなり変貌している気もする。東京という都市は、まさに生き物なのだ。週末のせいもあるだろうが、この展望スペースにはたくさんの人がいる。人種や年齢も様々で面白い。やはりカップルが多い。若い初々しいカップルもいれば、初老のカップルもいる。
「たくさんの人が、いるね」テンコはしゃいだ声で言う。「せっかくだから、特別展望台に行こう。ここよりずっと高いのよ。ね、いいでしょ?」
実は僕はそこまで行ったことはない、と告げると。彼女は僕の手を引っ張り、そのまま二人分の料金を支払い、さらに上のてっぺんの世界を目指した。その特別なエリアはさすがに空いていて、何か下の喧騒とはまったく別の世界のようであった。眺める下界。東京の全貌が、驚くほどのワイドな視野で見ることができた。僕らの視界にあるのは、あまりにたくさんの建物……。そこにはさらに小さい人間たちがいる。僕たちの生まれた建物が疎らな田舎とはあまりに異なった世界に今僕らは住んでいることに、改めて気付く。
 視界の遥か先には、横浜やお台場も見えている。いずれも何度も足を運んだことのある場所だが、ここで見ると、まったく違う場所に感じてしまう。ちっぽけな、つまらないもののように……。その景色をずっと眺めていると、張子の模型のような世界に、吸い込まれていくようになる。きっとガラスの前にぐぐっと寄っていたのだろう、急に僕の腕をテンコが強く掴んできた。
「どうしたの? ここは素敵でしょ。あまり回りに人がいないし、さらに東京のすべてが見える。私はけっこう来たわ。心が落ち着いて癒される。特につらいときなんか……」
 テンコは言葉を切った。しばらくして、小声でボソッと口を開く。
「そう、何度も、数え切れないほどここに来たの。そして、あまりにちっぽけな東京を見つめて、その先の地平線を見渡すと、つらいことなんか、忘れてしまう。気持ちがすっとするの」
 僕は左側にいる、テンコの顔を見た。大きな瞳を、さらに大きく開けて、ぐっと遠いところを見つめている。さっきのはしゃいだ表情とはうって変わり、険しい表情になっていた。僕の腕を掴んでいた彼女の手がビクッと動いた。と同時に表情が瞬時に緩んで、この前と同じように、目元から涙がスッと一筋だけこぼれ落ちた。僕は再度の出来事に、驚き、思わず視線を外し、眼を前に向けた。きっと彼女にとっては、見てほしくないことだろう。僕は無意識に、左手を彼女の手に重ねた。その手は、あまりに冷たかった。僕は、言うべき言葉を見つけられずに、眼前に広々と広がる、トーキョーという都会を見つめ続けた。
 僕も、田舎から出てきて、この都会であまりに小さい存在のまま、毎日あくせくとした仕事だらけの生活をしている。僕の魂は、田舎への想いと共に、タワーの展望台を出て、さ迷っている。魂は、少しだけ気持ちよさそうに天を飛び、すぐに僕の元に帰ってきた。胸の中がなにやら暖かい。彼女のさっきの言葉が理解できた気がした。
 恐る恐る横のテンコの顔を見る。彼女はもう険しい顔や、悲しい顔はしていなく、僕と同じような穏やかな表情になっていた。何か東京タワーからの展望風景のマジックにかかったように、つないでいる手を通じて、テンコと僕の想いが一緒になった。その時、背後から“カツ、カツ”というヒールの音が迫り、ほんの少しの僕らの幸せな時は終わった。別の客が上がってきたのだろう。僕はテンコに話しかけるべき言葉を捜した――。
「僕もこの雄大でちっぽけな箱庭のようなトーキョーの姿を見ると、なんとなく心がなごむよ」そう言って、僕はもう一度テンコを見た。彼女はうっすらと微笑んでいる。
「そう、この風景を見ると、なぜか生まれた田舎を思い出す。まったく違うけど、なぜかなぁ。君と居た田舎。そして、トーキョーのすべてを僕らは掴み取れるみたい。それを今、君と一緒に見ているのが、なんとも言えず不思議な感覚……なあテンコもそう思わないかい?」
思わず僕は心にあることを話してしまった。
「そうね、本当にこの風景は……心に何か現実とは別の、暖かい何かを与えてくれる」
 僕はとっさに、さっき彼女が言った言葉を思い出した。いつもここに一人できていたんだろうか? そして、心を癒していたんだろうか? そう思うとあまりに切なくなり、言葉を失う。僕は、自然に彼女の手をしっかりと握り、もう一度この素晴らしい景色を見た。そして、網膜に焼き付ける。またテンコに会えて、一緒にいることのできる幸せな気分もかみ締めていた。彼女もようやく柔らかい表情になってきている。彼女の手を握りながら、ぐるぐると特別展望台を回り、僕たちは一緒に、広大な都会トーキョーのすべてを見て回った。
 彼女はようやく明るい性格に戻り、「わあ、ほんとうに凄いね。ねえ菊地くん、あれ何だか判る?」などとはしゃいでいる。この明るさが、本心から来るものなのか、何かを隠そうとしているのか。表情には、なんとなく影があるようにも思え、気になってしょうがなかったが、僕はそんな素振りを見せないようにして、ともかく明るく振舞っていた。
僕たちは、てっぺんからトーキョーを満喫できて妙に嬉しい気持ちを共に持つことができた。二人して、上のほうを見ると透明感のある青い空に、ぽっかりとひとつの白い雲が浮かんでいる。それがあまりに近く、手を伸ばせば、触れる感覚に陥るほどであった。僕は、そっと手を伸ばし、掬い取るようなしぐさをしてみた。
 テンコは、それを見て僕の腕を引っ張った。
「ねえ、ねえ、お腹すかない?」僕の魂が、雲に乗ろうと夢中になっている時に、彼女はこう急に言い放ち、僕に無邪気な笑顔を送ってきた。おもむろに腕時計を見ようとしたが、今朝は、あまりに緊張して早く出てきたせいで、忘れてきたとこに今ようやく気が付いた。携帯を取り出し、時間を確認する。もう午後一時を回っていた。この東京タワーで二時間近くも過ごしていたことになる。僕の頭の中の時間が動き出し、急激に空腹感を覚え始めた。
「そうだな。もう一時か。どこかで、おいしいランチを食べよう。この近くで、どこか知っているところはある?」僕が訪ねる。
テンコは、口の近くに手をやり、すぐに真剣な表情で考え始めた。
「ちょっと遠いけど、青山に美味しいランチが食べられる中華屋さんがある……。でも遠いかな。ああ、ランチタイムに間に合うかしら……」
「どうかな。ちょっと遠いよね。まあ、いいからここから早く降りよう! 僕もどうしょうもなく、お腹が減ってきたよ」
 今度は、逆に僕が彼女の腕を引っ張って階段に向かった。僕たちは東京タワーを満喫し、名残を残さないように、駆け込むようにエレベーターに乗り込んだ。さっきはあまりに小さく見えていた、トーキョーの無数のビル群が、どんどん現実のものになろうとしていく――。
「ちょっと待って」。ひとつ下の大展望室でエレベーターを降り、再びエレベーターに乗ろうとした時、急にテンコが叫んだ。
「ゴメン、ここで五分だけ待っててくれる?」
 そう言うと、彼女は売店の方に駆けていった。あまりに突然のことだったので、僕はまた呆気に取られたまま、そこに立ち尽くした――。
 二機のエレベーターのまん前に立っていた僕は、乗ろうとしていた人たちの邪魔になり、冷たい視線を浴びたまま、体にゴツゴツと人や物が当たってくる。移動しようにも、人並みが多く、動けないまま、人々の流れが納まるまで、そこに突っ立っていた。僕はそんなことより、走り去ったテンコが気になってしょうがなかった。
 人々が乗り込みエレベーターの扉が閉まると、ようやく僕は自由の身になり、壁際に寄って、テンコを待った。
 視線を彼女が向かった売店に戻すと、テンコが長い足を思いっきり使って、こちらに駆けてきた。まるで百メートル走のような勢いだ。彼女は僕を見ながら、本当にニコニコしている。すぐに僕の前に立つ。ハアハアという息づかいが聞こえてくる。
「いったい、どうしたんだい?」
 僕はちょっときつい口調で問い詰めた。しかし、彼女はひるまずに、
「いいの、いいの。気にしないで。さあ、行こう!」そう言って、僕の腕をひっぱり、ちょうど開いた下りのエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターの中は込み合っていて、テンコの体に僕の体がくっつく状態になった。彼女の激しい動悸が伝わってくる。僕の心拍数もいきなり上がっていった。
 急に、彼女が振り向く。僕を子供のような表情でじっと見つめる。そして、小さくウインクした。と、同時に僕たちは“てっぺん”から地上に着陸した。
 さっきまでの興奮とテンコに対する胸騒ぎは収まっていた。と同時に、急激に空腹感が襲ってくる。僕はテンコの顔を見る。なんか、彼女の表情も、ホッとしているようで、赤みを帯びた柔らかな表情になっていた。
「これ、記念のお土産。おそろいだよ」とテンコは小さな包みを僕に手渡した。そして間髪いれずに、「ほんとうに、お腹がすいてきた。さあ、ランチ、ランチ!」ニコリと笑い、腕時計を確認する。そして子供のような目つきで僕を見た。
「そうだね。行こう、行こう。早く行かなきゃ、倒れそうだよ」
「さっきは、青山なんて言ったけど、この東京タワーが見えるお店に行きたいな。どこか知らない?」テンコが聞く。
「うん。今考える……。そうそう、浜松町のビルの上。ここからだと少し時間がかかるけど、青山より近いから、行ってみようか?」
「いいわ。そこで、決まり! まだ、ランチ間に合うかな?」
「うーん、たぶん3時くらいまではランチをやっていると思うよ。さあ、行こう」
 テンコが腕を絡ませてくると同時に、僕らは小走りに駆けながら動き始めた。横目でちらりと赤い東京タワーを見上げる。また、ここにテンコと来られるといいな、と僕は心の中で呟いた。
 
 浜松町の貿易センタービルの最上階は、東京タワーからお台場まで見渡せる、素晴らしい展望のできる場所である。そのティールームで軽いランチを食べながら、その美しさをゆったりと眺めていた。それは、夢の中にいるような感覚である。
「今日は、高い所がテーマね」テンコはそう言い、このシチュエーションを楽しんでいるようだった。まるで高校の時、初めてクイーンのコンサートに行ったことを熱く熱く語っていた、あの生き生きとした表情を思い出した。
ゆっくりとランチを取りながら、二人は他愛のない話……たいした意味のないお喋りを楽しんでいた。ただのブレンドコーヒーも、なぜかここで飲むと、別物のように美味しく感じるから不思議なものだ。一時間も経っただろうか、僕がトイレに立って戻ってくると、テンコは俯いたまま、肩を震わせ頭を垂れていた。
「どうしたんだい? 何かあったの?」僕は彼女に声をかける。しばらくそのままの姿勢まま沈黙が続く。そしてしばらく間があって、彼女は少しだけ顔を上げた。その目には、見る見るうちに涙がたまっていて、目は赤く充血していた。
 僕はいけないものを見てしまった、ととっさに気付く。さっきまでとはまったく違う沈黙の時が訪れた。でも、そのままでいる訳にもいかない。
「どうしたの?テンコ……。何かを思い出したのかい?」僕は、思いつきでそう切り出した。テンコは首を横に力なく振って、聞き取れないほどの小さい声で、こう呟いた。
「今日はこのまま付き合ってくれるよね? 話したいことがある……」
 僕は不意をつかれてすぐに返答ができない。
「私の今までのこと――大学を卒業して、それからのこと。決して明るい話じゃない。でも、菊地君に聞いてほしいの。お願い……」
 彼女は苦しそうに声を絞り出した。そしてますます赤くなった目で僕をじっと見つめる。返事はひとつしかない。
「うん、いいよ。ぜひ話を聞かせてほしい。僕も大学時代からのことを話したい。テンコに……」
 それを聞くとテンコの真っ赤な目の中に、少しだけ、光が戻った気がした。僕はそのまま、他愛のない話で、その場をつくろい。間の前の東京タワーを目に焼き付けて、見渡しの良い場所にお別れした。今日二度目の下界は、季節はずれの暑い空気が漂っていた。
 
 僕らは、浜松町から、新宿に出て、歩きながらデパートのウインドショッピングをゆったりとした。次第にテンコの表情も明るくなり、きれいに着飾ったディスプレイに、次々と反応し出した。彼女は、インテリアコーディネーターを目指して勉強したこともあるという。その後は、ガードをくぐり、西新宿へ向かった。彼女の要望もあり、落ち着いて話せる所に入ることになった。少しだけ高級なシティホテルの一室にチェックインする。たまたま、その日は客が少なかったせいか、セミスイートルームをあてがってもらえた。僕は、恋愛感情を取り払い、とにかくテンコの話を聞きたい、といった興味だけが先行していた。
 それから、夜までにテンコが語ってくれた大学からの彼女自身の話は、まったく想像もつかない衝撃的なものだった。僕が知らない彼女の二十年もの時間は、僕が過ごしてきた日々から比べると、雲泥の差である。僕はただただ好きなことをしてきて、うまく世を渡ってきた。もちろん一般の人と比べて平々凡々の生き様ではないと思うが、テンコの人生は、それを遥かに超えた生き様であった。シティホテルの一室で三時間に渡って聞くことができたテンコの生き様は、今となってはすべてが本当のことなのか確信は持てない。だが、僕にとっては、鮮明で二度と忘れることのできない、まさに驚くべき物語だった。ここで、すべてをここで述べると、あまりに長過ぎる物語なので、ここでは要点だけを列挙する。
 
一.高校時代は、僕らのような友達に恵まれず、一人孤立していることが多く、好きな音楽にますますのめり込んだ。
二.目指した大学に合格できずに浪人。そして、なんとか一年後に美術大学に入りデザイナーを目指した。
三.しかし、大学でも思ったほどの成績は収められずに、勉強が苦痛になり、次第に大学に行かなくなった。ほとんど毎夜ライヴハウスに入り浸り、あとはモノを売るバイトをするだけの毎日となる。
四.大学四年の時、両親が自動車事故で死亡。今までのバイトだけでは生活できずに夜のバイトをするようになった。
結局なんとか六年で大学を卒業したものの、就職はできずに、音楽雑誌の編集ライターとして、細々と仕事をし、また夜のバイトもそのまま続けた。そして毎晩のようにライヴハウスで、お気に入りのバンドを追っかけ、新しい刺激を探し回っていた。
五.ある雑誌の仕事をした時、デビューしたばかりのバンドにインタビューをし、その中のギタリストに夢中になる。そして追っかけとなり、バンドと共に全国を回るようになる。しかし、お金をもらうこともなく、バイトも辞めてしまったため結局生活費にも困り、ついには風俗嬢としてお金を得ることになった。
六.風俗で客として出会った男に、映画プロデューサーがいて、彼女の経歴を知り、一度だけ紹介を受け、映画の美術の仕事をした。その映画には本名“石沼典子”の名前でクレジットが入っていると言う。
七.熱を上げていたギタリストと同じバンドのドラマーと同棲生活に入る。それはギタリストの近くにいれるというだけの理由だった。しかし、次第に彼氏から暴力をふるわれるようになる。そんな中にもかかわらず妊娠をし、生活ができないと言う理由で無理矢理中絶をさせられた。
八.その男のあまりの仕打ちと暴力に耐えかねた彼女は、家を飛び出し、住む所もなくなり、ほとんど援交のような行為をしながら、ホームレスのような生活に入る。道や公園で寝て、そしてコンビニの残飯を漁る生活。ただ生きているだけの生活であった。(たぶん、あの電車の中で見たのはその時だったのだろう)。
九. あるきっかけ(彼女はこれについては何も話してくれなかった)、もう一度音楽系を中心としたライターとして記事を書くことを心に誓い、前に世話になった出版社を回って、しばらくぶりに文章を書くことができるようになった。今は数社の雑誌の取材をまかされるようになり、近々ミュージシャンのインタビューをまとめた単行本を出す予定もあるという。しかし、時折、過去の惨い思い出がフラッシュバックのように頭をよぎり、周期的に仕事と生活への気力を失うことがあると言っていた。
 
 その夜テンコが話してくれたあまりに深く長い物語は、こんな感じのものだった。その一つ一つのエピソードは、簡単には信じられないほどのもので、一つのエピソードで、一冊の本が書けるようなストーリーであった。そして、彼女はその夜、最後にこう言った。
「ほんとうに重い話でごめん。でも、もう少しで夢の単行本ができるかもしれない。今は週の半分くらい家にこもって、それをまとめているの。出来上がったら菊地君も、読んでくれるかな?」
「ああ、もちろんさ。楽しみだ。本当に。また連絡をくれるよね?」
その頃には、もうすでに買いこんできた赤ワインの二本が空こうとしていて、午前三時を回っていた。僕は、展望デートではしゃいだ後に、彼女の話を集中して聴いたせいか、急激に眠気をもよおしてきて、ツインの右側のベッドに横になった。なんとしても今夜は起きていたかったが、頭が疲れきっていて、起きることを拒否し、瞼が自然に落ちてくる。その時、テンコの息遣いが耳元に近づいた。
「今夜はありがとう。今度は菊地君の、今まで。そう、私が知らない君を話してくれる。知りたい……」
そう囁いて、彼女は、僕の唇に軽くキスをした。
「うん、近いうちに……約束するよ。近いうちに……きっと……だから……」そう言ったか言わないうちに、僕は意識が遠のき、闇の夢の世界へ落ちていった――。
 
 翌朝、僕は頭に鈍痛を覚え、目を覚ました。習慣のように時計を見る。午前八時少し前。どこにいるのかすら、すぐには理解できなかった。ハッと思いつくと、ベッドの左側を見た。しかし、そこには誰もいない。頭の痛さをこらえながら、起き上がり、ゆっくりとぼやけた目で、部屋を見渡す。ホテルの一室ということは思い出した。そうだテンコ! そう思うと、立ち上がり枕元の眼鏡をかけ、部屋をくまなく探す。バスルームかもしれない。そう思うと、重い体と頭を引きずるように、ドアとを開ける。そこには空白の空間があった。ふと鏡を見る。いつもと違い、年齢よりはるか年上に見える疲れきった顔があった。
 しかたなしに、フラフラと窓際のテーブルに向かう。そこには二本のワインボトルと紙でできた皿が雑然と置かれていた。少しだけ残ったワインに向けカーテンの隙間から光の長い筋が到達して、あまりに美しい煌きとなって眼に入る。まるで虹のような何色もの色が見える。そのテーブルの椅子にどっかりと座ると、皿の陰に紙切れがあるのが目に入った。そこには彼女の丸文字があった。
 
菊地くん
君の寝顔しっかりと見ちゃいました。私の話を聞いてくれてありがとう。今日は大切な約束があるので、先に帰ります。このままだと、ずっとここに居たくなるから。本当に感謝です。また、連絡するね。
じゃあ Bye!
                                 Tenco
 
 僕は、その紙きれを持ちながら、なぜだか、無性に涙が出てしょうがなかった。それは今までに体験したことのない、まったく理解できない感情だった。そして、再びテンコは僕の前から姿を消した。(第7回・最終話に続く)

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