見た映画について、書き起こし
最近、過去に見た映画について。大学ノートに書いた見にくい文字と記憶を頼りに書いてみる。久々に。書きたい映画のことを。あらすじなどは省略、感想のみ。
「骨」
ペドロ・コスタ
1997年 ポルトガル
絶望を纏ったゲットーでの生活。性別すらも削ぎ落とされて、映画としての純度が別格であり、前作、前前作と比べても映画としての劇要素は消え失せ、ドキュメンタリー的手法に落ち着いている。ブレッソンの「ラルジャン」と同じく、「音」の映画であると感じた。周囲の雑音が際立ってフィルムに焼き付けられており、終わることのない雑音は行き場のない社会で生活する人々を象徴するようであった。「雑音」としては鮮明でありながら、一つ一つの「音」としては漠然としている。なんの音なのか、誰が、何が発しているのか。映像で示されることはなく、ただ我々は人物を取り巻く環境としてしか捉えることができない。分解されることのない音は、不安だ。うるさいぐらいの雑音の中で生きる、静かな人々の、情念を欠いた人々の映画だ。
絶望とは、情念や熱、感情が行動に付属していないこと、つまり常態化されるものであり、飼い慣らせてしまうものであると感じた。映画の中では少ないながらもさまざまな出来事があり行動があるが、それを取り巻く人々の顔や身体にはなんの意思も感じない。目に見えないものが無く、目に見えるものだけがある。実存。身体を魂が欠落し、それを常として生きてきた人々の目は、あまりにも空虚で漆黒に満ちていた。
肉がついた映画を意図的に削いで削いで削ぎ落としていったような映画。ブレッソンは骨を作るつもりで骨を作っているような感じだが、ペドロ・コスタは肉を削ぎ落としていった結果、骨になったという感じ。ケバブみたい。
「あなたの痛みを分かち合うことができたらいいのに」
この言葉、慈愛、抱擁を受けるような言葉。この言葉にのみ人間の精神があり、希望であった。痛みを「分かち合う」ことの喜び。救済を行うのではなく、他者が自己を受容し、自分と同一になろうとすること。映画の中でこんなにも優しさに満ちた言葉を聞くとは思わなかった。