朝井リョウ「正欲」における不登校児に対する偏見的非難について

「正欲」という小説、いや、そのページをめくるたびに漂う空気には、どうにもこうにも時代錯誤な香りがまとわりついている。その中でも特に、学校に行かない小学生を執拗に非難するくだり、あれには思わず苦笑してしまった。まるで、学校という建物の外には一切の価値が存在しないかのように、教育という名の牢獄に鎖でつながれている著者の視点がありありと見て取れる。もう少し視野を広げてもらえないものかと、ついついペンを置いて考え込んでしまう。

彼の文中に登場する「学校に行かない子ども」への繰り返される攻撃は、まさに学校原理主義者の典型的な姿だ。その古びた校舎の窓の外には、世界が広がっているということすら気づかない、いや、気づきたくないのであろう。どうやら彼の頭の中では、「学校」という名の聖域から一歩でも外れれば、世界が崩壊するらしい。もはやそれは、教育ではなく、ただの信仰と言っても過言ではないだろう。

それでも、彼の語る「学校に行かない」という行為に対する不寛容さには、まるで目を血走らせた教義の信者のような、異端者を断罪しようとする熱意すら感じられる。いやはや、学校という場所を神聖視しすぎて、その外に存在する豊かな学びの形や、生徒一人ひとりの個性を完全に無視するこの視野狭窄ぶり、感心せざるを得ない。

だが、著者がこの狭い信仰の世界に閉じこもっているのは、きっと安心するからなのだろう。広い世界、変化する社会、そして多様な学び方を認めるということは、彼にとっては不安で恐ろしいのだ。「学校に行かない」ことを許容するということは、まるで彼の世界観そのものを否定するようなものだから、攻撃するしかないのだろう。

まあ、そんな時代遅れの「学校原理主義」も、現代の多様な教育システムの前には少々滑稽に映る。オンライン学習、ホームスクール、クリエイティブな学びの形が広がる現代において、学校だけが唯一の道だと信じ込むその姿は、まるで崩れゆく古い城にしがみつく騎士のようだ。どこか悲しくも、滑稽なまでに頑固な姿勢だ。

さて、「正欲」という小説の中で、学校に行かない小学生を繰り返し非難する言葉は、著者が学校原理主義にどっぷりと浸かっている証左だと言えよう。彼が抱くこの信仰は、もはや教育の本質とはかけ離れ、ただの狭量な社会規範の押し付けに過ぎない。それはまるで、古い壊れかけたレコードが繰り返す不協和音のように、時代の音楽にそぐわない。そして、その不協和音に耳を塞ぎながらも、現代の読者は思うのだ。「ねえ、もう少し自由に考えてみてもいいんじゃない?」と。

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