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東日本大地震発生から  もうすぐ13年 Part.1

      地震の記録


私は
『東日本大地震』の震源地となる
地域に住んでいます。
 
2011年3月11日   14時46分発生
  最大震度7  マグニチュード9
       死者・行方不明者 22,000人
  津波の高さ最大16m(ビルの5階の高さ)

防砂林の向こうは太平洋
一気に街を飲み込んだ


海が堤防から国道へ溢れた
走っていた車が全部飲まれた


それはもう恐ろしいに尽きます。
とんでもないことが起きてしまった。
地震の強さもですが
津波。
亡くなられた殆どの方は
津波に巻き込まれてしまった。
 
海沿いの町は
家ごと流され
土台しか残らなかった。
 
指定避難所の体育館には
津波が窓や出入り口を
鉄砲水のように突き破り
避難していた人々を
飲み込んだ。
水は体育館の中で渦を巻きながら
天井まで到達した。
助かったのは
渦に巻かれながら偶然
窓際のカーテンにしがみつけた人だけ。
 
友人は
津波からなんとか逃れたが
浸水していてその場に居るのが困難だったため
陸地へ歩いて移動するしかなかった。
陸地までは水の中を
渡っていかなければならない。
水の中は流されてきた瓦礫が
ひしめき浮いていたので
その上を歩いて渡れた。 だが
瓦礫の間には
亡くなられた沢山の人も浮いていて
場所によっては
人の上を歩くしかない究極の状況。
「ごめんなさい」と「南無阿弥陀仏」を
唱え泣きながら進むしなかった。
お仏様を靴で踏みつけてしまった。
と、彼女の中では自責の念で
一生忘れることの出来ない
悲しい出来事。
そうしなければ
自分の命も危なかった。辛い。
 
また
瓦礫の片付けを手伝いに行った知人。
スコップで泥をかいていた時に
中から「手」が出てきた。
お母さんと小さい子供が
固く握り合ったままの
手首から先だけの「手」と「手」。
 
もう一度言う。
固く繋いだままの母子の「手」と「手」。

何があっても離すまいと
お母さんは子供を守った。
もう、、、泣くしかない。
どんな思いで渦巻く津波の中
子供の手を握りしめていたのか。
命が尽きても絶対に離さない。
今まで見てきたどんなお母さんより
立派だ。


私はというと
子供の卒業式を控えていたため
美容室に居た。
 
私の住む地域はやや内陸のため
津波の被害はなかった。
その代わり建物崩壊と
地割れ・土砂崩れ・道路寸断
の被害は深刻だった。

シャンプーを終えて
濡れた髪の右サイドを
ぱつん ✂︎
とカットした瞬間
いきなり揺れ出した。
揺れが大きくなってきたため
店長さんが「外へ出て!」
と客を誘導してくれた。体張ってた!
 
外は広い駐車場。
あまりの揺れの大きさに皆
立っていられず
私なんてアスファルトの上を転がっていた🌀
ここで学んだこと。
    
   駐車のときは必ず
      サイドブレーキを引きましょう
 
サイドブレーキを引いていなかった車は
慣性の法則で、2m動きました。
地面を転がる私に向かって
動いて来ました。轢かれちゃう😱
 
更には
転がる私のすぐ先のアスファルトが
地割れし 液状化。
 
揺れは収まったかと思うと
また何度も何度も襲って来て
3分は続いたと思う。3分、本当💧

その後も
揺れはずーっと続いていた。
強いか弱いかだけで
とにかく地面はずっと動いていた。
隙を見て急いで車に飛び乗って
学校へ子供を迎えに行った。
途中、揺れでハンドルが取られる。
電柱も左右に揺れ、大きく傾く。
電線が切れて宙になびいている。
信号は動いていない。
踏切遮断機はカンカン鳴りっぱなし。
、、、よく事故が起きなかったと思う。
 

    長くなりそうなので
     一旦終わります。
    
       Part.2  では
     被災中の旦那の様子を
      お伝えします。
        結論
    とても頼りになりました。
     このときばかりは
   家族が一丸となり協力しました。
     旦那はあまりのショックで
         きっと
      私にモラハラするのを
     忘れていたのだと思います。

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