日本最古の「推し活」映画?『ガス人間第一号』水野に現代人の空虚を見る
今見ても古びない水野の人物造形
Netflixで「ガス人間第一号」がリメイクされるそうである。
https://about.netflix.com/ja/news/human-vapor-announcement
という訳で、見てみました。ざっくりと感想。
これって推し活の映画なのでは…?
というのも、ガス人間となった水野は「何者にもならなかった」という思いの強いキャラクターだからだ。その鬱屈を抱え、端金しか得るものがない日々の労働に精神をすり減らしながら生きてきた水野にとって、藤千代は彼の人生の中にない「輝き」を見せてくれる、まさに「アイドル」のような存在だった そう考えると水野という人物造形は現代にも通じるものがある。
「推し活」の限界点
近年、「推し活」がもてはやされて久しい。「推し」を人生の活力に、「推しがいるから頑張れる、生きていける。」という人も多い。しかし、推し活とは本質的に「いくら時間と労力、金銭を注ぎ込んでも推しが自分の想定通りの輝きを提供してくれるとは限らない」というシビアなものである。いくらファンが推し活を頑張っても夢半ばで解散してしまったり引退してしまう人、グループはごまんとある。巨大ビジネスであるが故の様々な思惑も絡んでくるし、人気の浮き沈みも激しい芸能の世界で凋落するのはあっという間である。基本的にファンはそれを「見ている」ことしか出来ない。
そして、自分の心の満たされなさを埋めるために始めた推し活が、いざ振り返ると何も持っていない、何者でもない自分と向き合わざるを得なくなったときあれだけキラキラ輝いていた経験が残酷な浪費と徒労と変わる。推しは輝いている、尊い。「ではあなたは何者ですか?あなたは何をしてきましたか?」という問いを突きつけられた時、自分とはなんだったのか。その絶望の声はネット上至る所で溢れている。
水野は奪った金で衰退の運命にあった春日流を無理矢理延命したに過ぎない。人気は金で買えないし、買った時点でその人気は価値のないものになってしまう。数多の銀行を襲い、「金」というシステムそのものを嘲笑っていたような水野が、最後には人気という「価値」に敗北することになる。
藤千代の輝きを永らえようとしたが、それが不可能だと悟ったときに彼に残るものは何があろう。人ですらない、「ガス人間」となり自分の実存すらあやふやになってしまった彼にとって、藤千代を「推す」という行為でしか自分の存在を感じられなかったのではないか。もはや彼に正気に戻って自分を省みるというのは耐え難いことだった。ラストの演舞は「いつまでも輝いていてほしい」という水野のエゴと「人の道を外れても舞台に立ちたい」という藤千代の意地のぶつかり合いのようにも見える。
このように見ると水野のような人がゴロゴロいる現代で「ガス人間第一号」をリメイク元の作品として選ぶのは必然だったような気がする。現代を鋭く捉えたリメイクを期待したい。