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離婚道#5 第1章「コケの一念岩をも通す」

第1章 離婚もっとずっと前

コケの一念岩をも通す


 いま思えば、中央新聞社はよく私を採用してくれたと思う。
 大学では体育会の応援指導部に入ったり、アメリカに短期留学したり、新聞の学生ページで投稿コラムの常連になったり……。私は4年間、ひたすら就職試験でアピールするための〝武器〟を身に着ける活動に邁進まいしんした。だとしても、私の大学から新聞記者になる人はほとんどいない。それに、中央新聞社の面接試験では、明らかに失敗したと思ったからだ。
 試験は最初の筆記から3次面接まであったのだが、致命的失敗をしたと後悔したのは2次面接の時。面接官は5人いて、主に2人の面接官が次々と質問を投げかけてきた。左端のボサボサ頭でヒゲ面の面接官はずっと黙っていたが、もう終わりかと思った時、おもむろに口を開いた。
「寺尾さん、理系なんだね。理系だから訊くけど、最近の脳死問題についてはどう思う? 脳死は人の死だと思いますか?」
 脳死とは、事故などによる外傷や脳血管障害などにより、回復不能の脳機能の喪失が起こることをいう。心臓移植などの臓器移植は、脳死状態で呼吸と心拍が保たれている人からしか提供され得ないことから、脳死は臓器移植問題とセットで議論されていた。当時、メディアには脳死問題がよく取り上げられ、「脳死は人の死か」論争が盛んだった。
 私は「理系だから」と軽々に「脳死問題」を質問され、困惑した。だって私は、医学部ではなく、工学部の学生だから。もっと言えば、工業化学科だから。でも、面接では瞬発力が求められる。とりあえず声を出した。
「臓器移植を望む人のために、脳死を人の死と認めていいとする考え方はわかります。しかし、脳死の判定については、医学者でも困難なことなので、『理系だから』と言われても、私に脳死の基準がわかるわけありません」
 ヒゲ面の面接官は、手にしていたペンを「ポン!」と机の上に放り投げた。
 しまった!
 質問した面接官は気分を害したようだ。私の回答は、まるで「質問がおかしい」とでも言うようで、面接官への非難と誤解されてしまう。なんとか挽回しようと、私はすぐに続けた。
「私の祖父は数年前、脳出血で倒れ、3週間意識不明になりました。私を含め、家族は、祖父の回復を願いながら、どんな状態でもいいから祖父には生きていてほしいと望みました。脳死者の家族という立場になった時、やはり脳死は人の死だと言われても、納得できないだろうと思いました」
 ヒゲ面は憮然ぶぜんとした表情のまま、
「おじいさんの話は、脳死の例じゃないよね」
「……はい」
 部屋全体が妙な空気に包まれた。まずい。私は必死にくらいついた。
「ですから、もし私が新聞記者になれたら、医師や患者、その家族など、徹底的に取材して記事を書き、脳死は人の死かどうか、読者に投げかけたいと思います」
 し~ん……。
 変な空気が漂う中で、そのまま面接終了となったのだった。
 ――あぁ~、ダメだった。受け答えがあまりに強引過ぎた。落ちた……
 ヒゲ面の面接官が、非常に不愉快そうだったことは間違いない。面接官5人の中で一番偉そうに見えたヒゲ面がダメと言えば、とうてい最終面接まで進めないだろう。
 せっかく2次面接まできたのに……。
 仕方ない。気分を変えて、次の社でがんばるしかない。そう思っていると、中央新聞社から最後の役員面接の電話連絡があったのだ。そうして、最終的に「内定」をもらった。
 私は女性だし、一流大学の学生じゃない。面接でも正解と思われる返答ができなかった。強みは、「絶対、新聞記者になる!」という強固で揺るぎのない一念のみ。
 コケの一念岩尾も通す――。
 コケは「虚仮」と書くが、「真実でないこと」という意の仏語であり、「思慮、内容がないこと」や「愚かなこと、また、その人」という意味である。
 思い込みや念の強い私は、傍から見れば紛れもなく虚仮である。「虚仮の一念」とは、よくいったもの。不利な条件ばかりなのに、中2からずっと夢見た新聞記者になれたのだ。……奇跡としかいいようがなかった。
 
 中央新聞社に入社した直後、大介の父親から荷物が届いた。就職祝いだった。
 手紙と厚い辞書が入っていた。
 辞書は、黄色い表紙の『角川類語新辞典』。
 手紙には、サツ回りの心得やまちネタ探しのコツが簡潔に書かれ、「いい文章を書くために、私も使っている辞書です。語彙ごいの勉強にもなりますから、活用してください。早く一人前の新聞記者になってください」と綴られていた。
 大介の父親はかつて、私に新聞記者を諦めさせるため、「理系なら目にとめるかもしれないが」と口にした。ところが私は本当に理系に進んでしまい、大学受験に大失敗。彼にしてみれば、私の行動は大きな誤算であって、「余計なことを言ってしまった」との思いがあったのかもしれない。ずっと私の進路を気にしてくれていたようだ。
『角川類語新辞典』は記者になってから大活躍した。
 いまでは手っ取り早くGoogle検索に頼るようになってしまったが、当時、『角川類語新辞典』は、自分の低い語彙力を自覚させてくれる先生であり、語彙不足を補ってくれる相棒だった。
 大介のお父さんは、結果的に、私に「狭き門より入れ」と導いてくれた恩人である。就職祝いの辞書は、黄色いカバーがボロボロになっても、ほとんど使わなくなっても、生若いころの失敗の思い出がしみこんでいるようで、どうしても捨てられない。

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