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小説無題#21 不在の声と残された痕跡


柳の部屋で彼を連れ戻す決意をした後の事を、奥村は断片的にしか覚えていない。なぜなら、その直後に過呼吸を引き起こし、気を失ってしまったからだ。

あの時の奥村は、完全に冷静さを欠いていた。自分が生来、感情的な人間であること。一度怒りに火がつくと自分では制御出来なくなる事を理解していたのは、奥村自身であったはずだった。それでも、ハンチング帽の男によって怒りや不安を煽られた結果、過呼吸で倒れてしまったのである。

過呼吸が始まった時点で、奥村は既に自分を制御出来なくなっていた。呼吸は浅く速くなり、酸欠のような症状が現れる。身体は新鮮な空気を求めてさらに早く呼吸を繰り返し、悪循環に陥る。頭では分かっていてもパニックというのは浅瀬で人を溺れさせるものなのだ。

やがて、視界がゆっくりと回り始める。

何者かが世界のフェーダーを静かに下げているように、音が遠のいていく。

卓上のルイ・アームストロングの首振り人形が、首を傾げたまま奥村をじっと見つめている。

世界はルイ・アームストロングを中心に回り続ける。

奥村は立っていられなくなり、膝をつき、そして床に這いつくばった。この部屋に新鮮な空気などどこにも無かった。抜け殻となった部屋に残されていたものは、大量消費社会が生み出したガラクタと、不審な男。そして、首を傾げたルイ・アームストロングの首振り人形だけだ。

「どうやら気分が優れないようですね。わたくしはこれで失礼します。」

そう言ってハンチング帽の男は立ち上がった。音が遠ざかって行く中で男の声だけが明瞭に響いた。

奥村は床に突っ伏していた。フェーダーはゼロレベルに達し、起き上がることも声を出すことも出来なかった。薄れゆく意識の中でただひとつ、男が歩き去る床の振動だけを頬に感じていた。


奥村が気がついた時には夕方になっていた。ハンチング帽の男と首振り人形は居る価値のない部屋を去り、ダイニングテーブルの上には男が吸った煙草の燃えかすの入った灰皿だけが残されていた。

奥村は窓を開けて首都高速を見下ろした。冷たく新鮮な空気がいっきに部屋に流れこんでくる。強烈な西日が眩しくて奥村は目を細めた。自動車は流れるように首都高を走り、都会のカラスは気の抜けた声をあげた。世界は平穏を取り戻しているみたいだ。

その美しい光景とは裏腹に奥村を取り巻く危機的状況は何も変わっていなかった。ハンチング帽の男はこの部屋に居て、柳の所在を奥村に告げた。『東北自由戦線』という過激派組織を構成するネットワークの一部、『セル』で、柳は『セル・リーダー』をしているのだという。なんとも信じ難いはなしではあったが、柳と連絡がとれぬ今、その可能性にかけて行動するしか無い。自分が持っているカードは惜しみなく使う。それが奥村の仕事の流儀だ。特に今回は自分の命が危険に晒されかねない。

奥村は開けた窓を締め、部屋をあとにした。やるべきこと、やらなければならないことが山積している。一つずつしらみつぶしにこなしていく、その中で、行方の分からない柳に手が届く一手を模索しなければならない。

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